このところ、城や古道に行きづらい状況に拍車がかかってきてネタが乏しい・・・上に、生来の筆不精にも拍車がかかってきて、なかなか当ブログも更新がされてませんが(^o^;) 今年ものんびりペースでぼちぼちとやっていきますので、よろしくお願いいたしますm(_ _)m
というわけで、今年平成29年(2017年)の城初めは、はからずも埼玉県北東部の小さなお城2つへの「寄り道」☆
もうひとつのブログ「雑記帳」の方でも書いたんですが、我が家では、毎年年始に埼玉北部の親戚に挨拶まわりに行っております(→記事「2017迎春&初詣♪」)。
その埼玉北東部の利根川に沿った地域は、戦国時代後期に小田原の後北条氏と、越後の上杉氏や関東の反北条氏との「境目地域」となっていて、こうした戦国大名や在地の国衆などによる争いも多く行われたため、城や陣も多く築かれました。
なので、以前にもこのあたりの小さな城について書いたことがありましたが(「マイナーな城めぐり@埼玉北東部」)、忍城や関宿城といった有名どころだけではなく、実は、地味~に小さい出城や砦のような城もあちこちに点在しています。
駆け足で登城~!
●騎西城
といっても、これは模擬天守。
騎西城は、加須市のHPにも書かれていますがそもそもは天守を持たない館城だったようで、この鉄筋コンクリート三階建ての天守は、旧騎西町の町制20周年を記念して昭和50年(1975年)に建てられたものです。
現在は「郷土資料展示室」となっていて、藤まつりの期間(ゴールデンウィーク)と騎西地域文化祭(11月上旬)の期間にのみ公開しているとのこと。
もともとの騎西城は、案内板に記載されていた縄張り図を見ると、模擬天守のある場所から多少ずれたところにあったようです。
実際に本丸があったのは、現在の天守から北東に200m~300mはなれた田んぼの中のようですね!
城域はすっかり田んぼや住宅地になってしまい、発掘調査で障子堀が検出されたりしたものの、現在遺構として目にできるのは「生涯学習センター」の向かいに残るこの土塁のみです。
騎西城が文献上に初めて出てくるのは、康正元年(1455年)に古河公方足利成氏が深谷上杉氏の庁鼻和(こばなわ)憲信と長尾景仲らが守る騎西城を攻略したというもの。
その後、しばらくの動向は不明なのですが、文亀年間(1501年~1504年)には常陸守護小田氏の一族ともされる武蔵小田氏の小田顕家が城主であったようです。
その後、顕家は忍城主成田親泰の次男朝興を養子に迎え、永禄4年(1561年)上杉謙信の関東管領拝賀式後に、朝興はその兄成田長泰とともに後北条氏の傘下に入ったことから、騎西城は忍城とともに上杉軍の攻撃を受けることになります。
永禄6年(1563年)武蔵国における上杉氏の拠点である武蔵松山城が後北条・武田連合軍により落城した際に、上杉輝虎(謙信)の反撃で小山助三郎(朝興)の守る騎西城が攻め落とされています。
また、天正2年(1574年)の第三次関宿合戦では、梁田持助の関宿城が北条氏政の軍に包囲され、それを助けるために布陣した上杉謙信が騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城などの領内を焼き討ちして、北条軍を牽制しています。
江戸時代以降の灌漑のおかげで現在は埼玉の穀倉地帯となっている騎西城周辺ですが、中世には利根川が東京湾に流れ込んでいたこともあって、湿地帯が広がっていたようです。
騎西城についてもこの湿地帯が、「浮き城」として有名な忍城のように天然の要害となっていたのかもしれませんね。
●種垂城
騎西城から3~4kmほど南西に向かったところに「種足城址公園」という小さな公園があります。
一説には菖蒲城の支城であったともいわれる種垂城の跡です。
騎西城のところでも書きましたが、騎西城主であった小田顕家は忍城主成田親泰の次男朝興を養子に迎えました。
現地案内板によれば、その際、自身は上種足百石に隠居したということですが、それがこの種垂城ということなのでしょうか。。。
実際には、この現地案内板の他は本当にフツーの公園・広場です。
ぐるっと周囲を一周してみたのですが、遺構らしきものは何も見当たりませんでした。
ちなみに、この周辺には八幡山、シロンチ(城の内)などの城に関する地名が残っているとのこと。
また、周辺の発掘調査では、室町時代の陶磁器や漆椀などステイタスの高い道具が出土していることから、城もしくは館があったことは確かなようです。
ただ、騎西城にしろ種垂城にしろ、なぜこんな「何にもない真っ平らなところ」に城が築かれたのか、ワタシにはこの立地がよくわかりませんでした・・・
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