2017年1月8日日曜日

富士・沼津・三島合同展示会めぐり

年末に、静岡県の駿東地域にある3つの博物館が、「駿東・北伊豆の戦国時代」という、駿東地域の今川・武田・北条のせめぎ合いに興味を持っている後北条好きのワタシには願ってもない共通テーマのもとに、合同展示を行っているという情報をゲットしました。


平成8年(1996年)に富士・沼津・三島の3市の博物館で連絡協議会が結成されてから、毎年持ち回りで共同の企画展を開催していたということなんですが、昨年4月に富士市立博物館が富士山かぐや姫ミュージアムとしてリニューアルオープンしたことを受けて、今回初めて共通テーマを設けて、三島市郷土資料館、沼津市明治史料館、富士市の富士山かぐや姫ミュージアムの、3館それぞれの企画展を同時期開催することになったそうです。

ただし「同時期開催」とは言ってもびみょーに開催時期がずれている・・・(^o^;) ので、3館全部の企画展が本当に同時に開催されているのは、12/17~1/22の約1ヶ月間(しかも年末年始挟んでる)だけ!



うかうかしてると見逃しちゃう☆ ということで、成人の日の連休の1日を使って、新東名高速をLET’S GO!


●富士山かぐや姫ミュージアム「駿東・北伊豆の戦国時代~三国同盟とその周辺~」(12/17~2/26)


新東名・新富士ICから西富士道路に入り、広見ICを降りて3分ほどのところに「広見公園」というバラが有名らしい広い公園があります。富士山かぐや姫ミュージアムはその公園の東端にあって、周囲には富士市内から古い建造物が集められて移築展示され「歴史的建造物ゾーン」となっています。


駐車場で車を降りて公園に入ると、道端に、これまた市内から移築されたらしい、いくつもの道標が。

中には、旧東海道や根方街道(旧東海道が整備される以前の古道)の道標もあるではありませんか~!

保存展示のためとはいっても、こういう道標は元のところから動かしてしまうと、古道そのものがわからなくなってしまうのになぁ・・・

道標を横目にみながら坂道をあがっていくと、ミュージアムの入口になぜか鳥居が立っています。



これは、平成16年~28年まで富士山頂に立てられていた鳥居だそうです!

案内板によると富士山頂の鳥居は、かつて富士川の渡船を担っていて舟の材料を富士山中で調達していた富士市岩淵の集落の人々による「鳥居講」によって、江戸時代から途切れることなく12年に1度の申年に奉納されているものだそうです。

で、昨年(平成28年)の申年にも新しい鳥居が奉納されたので、その前の回(平成16年)に奉納された鳥居が麓におろされて、ミュージアムの前に移築されたのだとのこと。

この鳥居を潜れば、いよいよ展示を行っているミュージアム♪
公園側のエントランスからは、建物の2階に直接入り、常設展示室入口が並ぶロビーを一番奥まで進むと、今回の企画展が行われている特別展示室があります。

入館料も企画展示も、なんと無料!

なので、常設展示も企画展も見放題♪ しかも、事務室の方に聞いてみたら企画展の図録はないとのことで、そのためか展示物のほとんどが撮影可でした☆


富士山かぐや姫ミュージアムでの展示テーマは「三国同盟とその周辺」ということで、地域に残る文書等で、富士市地域と今川・北条・武田の各戦国大名との関わりをフォーカスしてます。

たとえばこれは吉原宿の矢部家に残る、北条氏が矢部家に対して、武田家との戦いに備えて富士川に船を集めておくことなどを命じた永禄12年(1569年)の虎朱印状。


他にも、戦に用いる品物の輸送や管理等を命じる文書や渡船の権利を認める文書などで、現在の田子の浦港(富士市)が戦国時代に今川、北条、武田と支配者が変わっても軍事的、経済的に重要な場所であったということを説明しています。

ここの展示でワタシ的にツボッたのが、それぞれの文書が書かれた経緯について、LINEのトークの形式で当事者の会話で説明しているところ。


たとえば下の文書は永禄12年(1569年)、武田信玄の駿河侵攻の最中に出されたもの。

北条氏政が東泉院の雪山に対して、以前のように東泉院を管理することを認めた判物ですが、氏政と雪山の会話(トーク)で、武田に追い出された雪山が北条方に引き取られて、雪山が今川氏真から出された東泉院の権利書を提出したことにより、改めてこの判物が書かれたという経緯が説明されています。


単に、どういう内容が書かれているかの説明だけだと「ふぅ~ん」で終わってしまいますが、「なぜこの文書が書かれたのか」の説明があると、よりこの文書についての理解が深まる気がします。

LINEトーク形式というのが、中高生にも親しみやすくてよいですよね~!
(もちろん自分も!)


これは豊臣秀吉の小田原攻め直後の天正18年(1590年)12月に、秀吉が東泉院に対して、東泉院領190石を認めたもの。


こちらは関が原合戦後の慶長9年(1604年)に、秀吉が認めていた東泉院領190石を、改めて徳川家康が寄村の形をとって認めた文書です。

それぞれLINEトーク形式で説明が付いています。


また、こちらは今川義元が東泉院雪山に対して、下方五社の修理費用と別当職を認めたものですが、先年に戦乱の火事で消失してしまった権利書の再発行についても、説明されています。


かつて、現在の富士市今泉に所在していた密教寺院である富士山東泉院は、富士山の南麓にある五つの神社(下方五社)の管理運営を行っていましたが、それとともに代々の支配者から領地(朱印地)を認められ、この地域の領主としての性格も持っていたのだそうです。

支配する戦国大名がいくつも変わる「境目」の地域で、町や中小の在地領主たちサイドの目線から、彼らがたくましく生き延びる様子がうかがえた展示でした♪

●沼津市明治史料館

「駿東・北伊豆の戦国時代~駿豆騒乱 国境の攻防~」(11/12~1/29)


善得寺跡のすぐ下から興国寺城の前を通って沼津市方面に走っている県道22号線「根方街道」(古代~中世の東海道)が、国道1号線沼津バイパス(現在の東海道)と交わるあたりに、2つ目の展示会場の明治史料館が建ってます。




駐車場に車を入れるときに、警備員さんに「講演会ですか?」と聞かれました。
たまたま偶然なのですが、この日はちょうど企画展関連事業の講演会だったようです。

講演のテーマは「戦国の争乱と沼津 ~境界の戦国史~」、講師は沼津市史編さん特任調査員だった則竹雄一さんという方。


受付で聞いてみたら、もちろん満席で受講はムリだったんですが、レジメを無料で分けていただけました!

本当はちょくせつ講義を受けたかったけど・・・レジメには講義で使われる史料についてもプリントが添付されてて、自分で調べるのにすごく参考になります♪

明治史料館の事務の方、やさしい!ありがとうございました~m(__)m

さて、この史料館はもともと、常設展示で「戦国時代の沼津」をテーマの1つとして取り上げていて、北条氏・今川氏・武田氏の勢力争いを中心に後北条氏朱印状や武田・北条合戦布陣図などが常設展示されているそうです。




これは天正8年(1580年)の東間門田中家文書で、図の下の方に「天正八年九月十四日 北条氏政と武田勝頼が駿河三枚橋城において大攻撃 甲州方勝利 戦中勝頼不在、西ノ方徳川家康ヲ追て安部川二アリ、同十五日帰城」と書かれています。

天正8年だと、ちょうど御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。
布陣を地図にマッピングしてみたいですね!

ちなみに「駿河三枚橋城」の跡に江戸時代に築かれた沼津城については、模型がありました。三枚橋城の1/3程度の規模だったようです。


さて、企画展示はその常設展示フロアの一角。
普段は違うテーマが常設展示されている部分に特設されているので、入館料200円で常設・企画の両方見放題☆

企画展エリアでは、「駿豆騒乱 国境の攻防」というテーマで、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆乱入から豊臣秀吉の小田原攻めまでの約1世紀の間、今川・武田・北条の「境目」であった沼津地域での攻防について、パネルと文書中心に展示がされていました。

実は、明治史料館の企画展示は全面的に撮影NG。
そのかわり、企画展示は、立派でわかりやすい図録(パンフレット)ありです!(1冊300円)



内容については図録をご覧頂くのが一番!なんですが・・・

HP確認したらこの企画展示の図録が載っていないようなので、入手できるかどうかは史料館に直接お問い合わせ頂くのが一番かと。。。

さて沼津市明治史料館の企画展示「駿豆騒乱 国境の攻防」では、沼津という土地柄もあって、沼津地域での戦国大名間の「境目」攻防戦をとりあげていますが、北条早雲の相模平定から、今川氏における花蔵の乱、「甲相駿三国志」ともいえる第1次・第2次河東一乱、武田氏の駿河侵攻~第1次・第2次甲相合戦・・・と本当にバラエティに富んでいます(笑)

そして、各戦国大名の朱印状や判物、制札などを展示するとともに、それぞれの合戦について各軍の動きや城郭配置図がパネルでわかりやすく示されていて、見ているだけでわくわく♪

あまりとりあげられることない(と思う)第2次甲相合戦の海戦についても、北条氏が井田真城山の人々に武田氏の船を見つけ次第のろしを上げるよう命じる印判状の展示とともに、長浜城や北条水軍、回線の動きについてパネルで説明されていました。

特に特徴的だったのが、甲相駿の3大名だけでなく、そのはざまで生き延びようとする国人領主・葛山氏を取り上げていることです。

葛山氏は沼津地域を支配する国人領主で、室町幕府の奉行衆である一方で駿河国守護である今川氏の従属下にも入っていました。また、葛山氏娘が伊勢宗瑞(北条早雲)に嫁ぎ、宗瑞の子が葛山氏を養子として継ぐなど、北条氏の一族でもありました。その上、甲斐の武田氏と所領を接するという非常に難しい位置にいました。

なので、3大名がさまざまな攻防戦を行う中で、養子縁組や外交などでその間を生き抜こうとしていた様子が、葛山氏の判物などから伺われます。

最後は武田氏駿河侵攻の際に北条への内通を疑われて滅ぼされる(信玄六男が婿養子に入って名跡を継いでますが)わけですが、それにしても考えてみたら武田・北条・今川・葛山の各氏はみな親戚同士のはずなんですけどね・・・


●三島市郷土資料館 

「駿東・北伊豆の戦国時代~北条五代と山中城」10/15~1/22


3ヶ所目の三島市郷土資料館は、三島駅前の市立公園楽寿園の中にあります。
なので、入館料は無料なのですが、楽寿園の入園料が300円かかります☆

三島の企画展は「北条五代と山中城」というテーマではありますが、「北条五代」と三島の関係というよりも、特に天正14年(1586年)~天正16年(1588年)にかけての山中城修築に関する労働奉仕命令の虎朱印から、天正18年(1590年)の豊臣秀吉掟書「環住の制札」などの戦後処理に至るまでの、「山中城攻め」についてスポットを当てた展示になっていました。

特に自分的にツボだったのは、天正18年(1590年)に山中城城将の松田康長が箱根権現別当にあてた2通の陣中見舞いの返礼状。


西股総生先生が著書「東国武将たちの戦国史」で、北条氏直が幕僚を従えて箱根の屏風山を視察している旨の記述があることから「箱根決戦構想」を展開されている、その元の文書ってこれかぁ~!一気にテンションMAX(笑)

そして、天正17年(1589年)北条氏直あての豊臣秀吉のいわゆる「宣戦布告」朱印状や、山中城を囲む豊臣方の陣取および進軍経路を図示した「伊豆山中城図」からは状況が戦いに向かっていく様子がひしひしと伝わってきましたし、山中城から出土したぼろぼろの前立てや錣(しころ)、鎧の草摺や威された状態の小札(こざね)などに、戦の様子が彷彿とされて胸にせまるものがありました・・・(><)

ここも企画展の展示物撮影は全面的にNG。
ただし、この企画展の図録(パンフレット)は三島市郷土資料館のHPからダウンロードできます!


ここで3館展示のスタンプラリーをコンプリートしたので、ご褒美をいただきました♪


なんと、企画展にちなんだ薄いプラスチック製のしおり!今川義元・武田信玄・北条早雲(なぜか・・・)の中から1種類を選ぶことができます♪ ワタシは北条バージョンをGet。




うっふっふ、三つ鱗に虎朱印♪
これだけでもがんばって3館回った甲斐があったかなww


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