2017年1月31日火曜日

「戦国を生き抜いた武将たち」展・・・からの鎌倉古道

埼玉県立嵐山史跡の博物館で、平成28年(2016年)11月1日(火)~平成29年(2017年)2月19日(日)の間、企画展「戦国を生き抜いた武将たち」を開催しています。

天文15年(1546年)の河越合戦から天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで戦国大名としての後北条氏が滅亡するまでの時期の、北武蔵で活躍した北条氏一族と国衆たちの動向をとりあげていて、戦国時代・武蔵国・後北条氏が大好きなワタシにとって、めっちゃうれしい企画!

なんとか仕事の休みをとって、嵐山史跡の博物館へとんでいきました~♪



平日の午前中なせいか、館内はがらがら。
受付のお姉さんにいろいろお聞きしても、いやがらずに対応していただきました(^^;)

例によって館内は撮影禁止。なので、まずは配布されている展示目録をGETし、図録を購入しえ両方で概略をチェック。

ついでに、つい数日前に開催されたシンポジウム「関東の戦国末期を再考する」の資料集も、教えてもらって購入。

シンポジウムあったなんて知らなかった~(><)


さて、企画展。北武蔵の「戦国時代」を享徳3年(1454年)の享徳の乱の始まりから天正18年(1590年)の小田原攻めの終結までとして、天文15年(1546年)の河越合戦を境に前期・後期に分類し、その後期部分についての
 ①小田原北条氏による支配  ②北武蔵の国衆たちの動向
 ③出土資料からみた戦国時代の城 ④小田原合戦と武将たち
をとりあげています。

特にワタシ的には①と②にへばりつきになりました☆

まず、①「小田原北条氏による支配」。
北条家の領国経営について、北条好きにはおなじみの小田原衆所領役帳や、諸役を賦課するときの基準数値が書かれた「御検地音書出」、軍役内容を定めた「着到状」などでの展示・説明がありました。

ここでワタシ的に一番ツボだったのは、交通・通信網がどうであったかの説明の部分で展示されていた、大永4年(1524年)4月の伝馬制札(北条家印判状)。

写真は不可ですが、展示されていた「翻刻」によりますと、文書には以下のとおり・・・

「制札  たいまの宿
  右、玉縄・小田原よりいしとゝ もろへわうふくのもの、とらの印判をもたさる者ニ、てん馬おしたていたすへからす、もしおさへてとるものあらは、きつとめしつれ、おだわらへ成共、玉なわへ成共、こすへき者也、仍如件」

つまり、「玉縄(鎌倉市)・小田原から石戸宿(北本市)・毛呂宿(毛呂山町)を往復する場合、北条家の虎の印判を捺印した手形を持たない者は伝馬をしてはならない」といった内容が書かれているようです。

そして、文書の最後には日付とともに「禄寿応穏」の虎の印判がばーん!

これはもしかして・・・以前毛呂竜ヶ谷城の記事で触れた「当麻宿・関山文書」の原本?!
と、よくよく展示解説をみると(複製)の文字。原本は埼玉県立文書館にあるようです。

機会があったら原本を見に行きたいですね~!その前にまずは読めるようになりたいですけど☆

②の「北武蔵の国衆たちの動向」では、特に武蔵松山城の上田氏、岩付の太田氏、忍の成田氏、羽生の木戸氏にフォーカスし、判物や書状などを展示しつつ、それぞれの城と城主・主家の変遷についてわかりやすく説明されているのですが、どの城も城主・城代や主家がその時期時期で変わっていて、北条と上杉の最前線「境目」感が満載です!

特に面白いのが忍城で、ほかの城は城主・城代と主家がリンクして変遷しているところ、忍城の場合は、城主の成田氏が築城して以来忍城を中心として領国を形成し、山内上杉氏、小田原北条氏、越後上杉氏と主家を変えながら、国衆として戦国時代を生き抜いています。

また、岩付城の場合は、天文16年(1547年)~永禄7年(1565年)に城主だった太田資正が扇谷上杉氏→小田原北条氏→越後上杉氏と主家をめまぐるしく変えています。

そういえば、太田氏関連ということで展示されていた「栄俊筆 松橋血脈裏書」という文書が、非常にインパクトがありました☆

これは東松山にある巌殿山正法寺(坂東三十三観音第十番岩殿観音)という真言宗の古刹の、中興開山となった栄俊が、戦火によって消失した堂塔伽藍を再興したことを天正2年に宗派の「血脈」の裏に書き付けたもの。

この戦火は太田美濃守(資正)と北条氏康による永禄5年(1562年)の松山城攻防戦の際のことらしいのですが、その戦いに至るまでの経緯も、北条氏綱の武蔵進出・河越合戦から越後上杉氏の小田原攻め、氏康の三田氏攻めなどに触れていて、かなり生々しくてしばらく釘付けになってしまいました。。。

さて、展示を最後までじっくり見終わったら、埼玉県立嵐山史跡の博物館は菅谷館の中に建ってますので、せっかくだからちょこっと寄ってみることに。

●菅谷館


菅谷館は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡といわれています。
また、長享の乱以後は山内上杉氏の拠点となり、天文15年(1546年)の河越合戦以後は小田原北条氏によって使われていたようです。

以前にも何回か訪れていますし、本日パンプスのため(←)、菅谷館はとりあえず重忠公の像にご挨拶と、本丸に登城のみで撤退☆


扇谷・上杉両上杉氏の「境目」であったせいか、はたまた北条氏の手が入っているのか、「菅谷城」と呼んでもおかしくない堂々たる堀や土塁に、いつきても感動です!

本丸の堀の折れがきれいだ~☆
しかも、前回来たとき以上(前回記事コチラ)に草がきれいに刈られていて、堀だけでなく林の奥までばっちり見える!



本丸土塁もばっちり見えて、思わず登りたくなっちゃいます!(禁止されてます!)


う~ん、パンプスで来たことを後悔・・・


●鎌倉古道


菅谷館からは、以前も辿った館のそばを通る鎌倉街道上道(前回記事コチラ)を通って、地元方向へ。

愛車に乗り込んで菅谷館の脇から鎌倉街道に入り、都幾川を渡って、まずは帯刀先生源義賢(木曽義仲のお父上)のお墓にお詣り。


残念ながら、実はこの後に用事があって時間がないので、すぐそばの大蔵館はパス。。。

源義賢公のお墓からさらに鎌倉街道を南下、将軍沢から峠を少し登ったところにある鎌倉古道の掘割状遺構に行ってみると・・・


前回来た時にはめっちゃ藪藪で「ココロの目」を駆使して見ていた遺構が、藪がなくなってめちゃくちゃ見やすくなってる~!!Σ( ̄□ ̄;)


全長200mほどの遺構ですが、今が見るチャンスかも☆

そのまま車道(街道)を南下すると、足利尊氏と宗良親王を奉じた新田義宗(新田義貞の三男)の戦い(武蔵野合戦)の最終決戦地といわれる笛吹峠。

先ほど資料のところで出てきた岩殿観音(坂東三十三観音第十番巌殿山正法寺)と、同じく坂東三十三観音の第九番都幾山慈光寺を結ぶ「巡礼街道」とのクロスポイントでもあります♪


車道が鎌倉街道、交差して林の中を通るのが「巡礼街道」です。

ここでひとやすみしたら、さらに鎌倉街道を毛呂山に残っている鎌倉古道遺構まで一気に南下。


ここも前回来た時には(前回の記事はコチラ)「ココロの目」を駆使しなきゃ・・・な大藪だったのに、今回はなんと見やすいこと!


冬だから・・・?いや、この綺麗さはきっと地元の方々がお手入れしてくださっているものと思われます。

地元の方々にも鎌倉古道のことが知られるようになってきたのならいいなぁ・・・
このまま良好な保存がされていきますように!

というわけで、駆け足の展示会&菅谷館・鎌倉街道でした。
鎌倉街道遺構は、もし古道好きの方がいたらいつかご案内したいですね~♪


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2017年1月8日日曜日

富士・沼津・三島合同展示会めぐり

年末に、静岡県の駿東地域にある3つの博物館が、「駿東・北伊豆の戦国時代」という、駿東地域の今川・武田・北条のせめぎ合いに興味を持っている後北条好きのワタシには願ってもない共通テーマのもとに、合同展示を行っているという情報をゲットしました。


平成8年(1996年)に富士・沼津・三島の3市の博物館で連絡協議会が結成されてから、毎年持ち回りで共同の企画展を開催していたということなんですが、昨年4月に富士市立博物館が富士山かぐや姫ミュージアムとしてリニューアルオープンしたことを受けて、今回初めて共通テーマを設けて、三島市郷土資料館、沼津市明治史料館、富士市の富士山かぐや姫ミュージアムの、3館それぞれの企画展を同時期開催することになったそうです。

ただし「同時期開催」とは言ってもびみょーに開催時期がずれている・・・(^o^;) ので、3館全部の企画展が本当に同時に開催されているのは、12/17~1/22の約1ヶ月間(しかも年末年始挟んでる)だけ!



うかうかしてると見逃しちゃう☆ ということで、成人の日の連休の1日を使って、新東名高速をLET’S GO!


●富士山かぐや姫ミュージアム「駿東・北伊豆の戦国時代~三国同盟とその周辺~」(12/17~2/26)


新東名・新富士ICから西富士道路に入り、広見ICを降りて3分ほどのところに「広見公園」というバラが有名らしい広い公園があります。富士山かぐや姫ミュージアムはその公園の東端にあって、周囲には富士市内から古い建造物が集められて移築展示され「歴史的建造物ゾーン」となっています。


駐車場で車を降りて公園に入ると、道端に、これまた市内から移築されたらしい、いくつもの道標が。

中には、旧東海道や根方街道(旧東海道が整備される以前の古道)の道標もあるではありませんか~!

保存展示のためとはいっても、こういう道標は元のところから動かしてしまうと、古道そのものがわからなくなってしまうのになぁ・・・

道標を横目にみながら坂道をあがっていくと、ミュージアムの入口になぜか鳥居が立っています。



これは、平成16年~28年まで富士山頂に立てられていた鳥居だそうです!

案内板によると富士山頂の鳥居は、かつて富士川の渡船を担っていて舟の材料を富士山中で調達していた富士市岩淵の集落の人々による「鳥居講」によって、江戸時代から途切れることなく12年に1度の申年に奉納されているものだそうです。

で、昨年(平成28年)の申年にも新しい鳥居が奉納されたので、その前の回(平成16年)に奉納された鳥居が麓におろされて、ミュージアムの前に移築されたのだとのこと。

この鳥居を潜れば、いよいよ展示を行っているミュージアム♪
公園側のエントランスからは、建物の2階に直接入り、常設展示室入口が並ぶロビーを一番奥まで進むと、今回の企画展が行われている特別展示室があります。

入館料も企画展示も、なんと無料!

なので、常設展示も企画展も見放題♪ しかも、事務室の方に聞いてみたら企画展の図録はないとのことで、そのためか展示物のほとんどが撮影可でした☆


富士山かぐや姫ミュージアムでの展示テーマは「三国同盟とその周辺」ということで、地域に残る文書等で、富士市地域と今川・北条・武田の各戦国大名との関わりをフォーカスしてます。

たとえばこれは吉原宿の矢部家に残る、北条氏が矢部家に対して、武田家との戦いに備えて富士川に船を集めておくことなどを命じた永禄12年(1569年)の虎朱印状。


他にも、戦に用いる品物の輸送や管理等を命じる文書や渡船の権利を認める文書などで、現在の田子の浦港(富士市)が戦国時代に今川、北条、武田と支配者が変わっても軍事的、経済的に重要な場所であったということを説明しています。

ここの展示でワタシ的にツボッたのが、それぞれの文書が書かれた経緯について、LINEのトークの形式で当事者の会話で説明しているところ。


たとえば下の文書は永禄12年(1569年)、武田信玄の駿河侵攻の最中に出されたもの。

北条氏政が東泉院の雪山に対して、以前のように東泉院を管理することを認めた判物ですが、氏政と雪山の会話(トーク)で、武田に追い出された雪山が北条方に引き取られて、雪山が今川氏真から出された東泉院の権利書を提出したことにより、改めてこの判物が書かれたという経緯が説明されています。


単に、どういう内容が書かれているかの説明だけだと「ふぅ~ん」で終わってしまいますが、「なぜこの文書が書かれたのか」の説明があると、よりこの文書についての理解が深まる気がします。

LINEトーク形式というのが、中高生にも親しみやすくてよいですよね~!
(もちろん自分も!)


これは豊臣秀吉の小田原攻め直後の天正18年(1590年)12月に、秀吉が東泉院に対して、東泉院領190石を認めたもの。


こちらは関が原合戦後の慶長9年(1604年)に、秀吉が認めていた東泉院領190石を、改めて徳川家康が寄村の形をとって認めた文書です。

それぞれLINEトーク形式で説明が付いています。


また、こちらは今川義元が東泉院雪山に対して、下方五社の修理費用と別当職を認めたものですが、先年に戦乱の火事で消失してしまった権利書の再発行についても、説明されています。


かつて、現在の富士市今泉に所在していた密教寺院である富士山東泉院は、富士山の南麓にある五つの神社(下方五社)の管理運営を行っていましたが、それとともに代々の支配者から領地(朱印地)を認められ、この地域の領主としての性格も持っていたのだそうです。

支配する戦国大名がいくつも変わる「境目」の地域で、町や中小の在地領主たちサイドの目線から、彼らがたくましく生き延びる様子がうかがえた展示でした♪

●沼津市明治史料館

「駿東・北伊豆の戦国時代~駿豆騒乱 国境の攻防~」(11/12~1/29)


善得寺跡のすぐ下から興国寺城の前を通って沼津市方面に走っている県道22号線「根方街道」(古代~中世の東海道)が、国道1号線沼津バイパス(現在の東海道)と交わるあたりに、2つ目の展示会場の明治史料館が建ってます。




駐車場に車を入れるときに、警備員さんに「講演会ですか?」と聞かれました。
たまたま偶然なのですが、この日はちょうど企画展関連事業の講演会だったようです。

講演のテーマは「戦国の争乱と沼津 ~境界の戦国史~」、講師は沼津市史編さん特任調査員だった則竹雄一さんという方。


受付で聞いてみたら、もちろん満席で受講はムリだったんですが、レジメを無料で分けていただけました!

本当はちょくせつ講義を受けたかったけど・・・レジメには講義で使われる史料についてもプリントが添付されてて、自分で調べるのにすごく参考になります♪

明治史料館の事務の方、やさしい!ありがとうございました~m(__)m

さて、この史料館はもともと、常設展示で「戦国時代の沼津」をテーマの1つとして取り上げていて、北条氏・今川氏・武田氏の勢力争いを中心に後北条氏朱印状や武田・北条合戦布陣図などが常設展示されているそうです。




これは天正8年(1580年)の東間門田中家文書で、図の下の方に「天正八年九月十四日 北条氏政と武田勝頼が駿河三枚橋城において大攻撃 甲州方勝利 戦中勝頼不在、西ノ方徳川家康ヲ追て安部川二アリ、同十五日帰城」と書かれています。

天正8年だと、ちょうど御館の乱と武田・北条の手切れ直後のことで、すごく生々しいものを感じます。
布陣を地図にマッピングしてみたいですね!

ちなみに「駿河三枚橋城」の跡に江戸時代に築かれた沼津城については、模型がありました。三枚橋城の1/3程度の規模だったようです。


さて、企画展示はその常設展示フロアの一角。
普段は違うテーマが常設展示されている部分に特設されているので、入館料200円で常設・企画の両方見放題☆

企画展エリアでは、「駿豆騒乱 国境の攻防」というテーマで、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆乱入から豊臣秀吉の小田原攻めまでの約1世紀の間、今川・武田・北条の「境目」であった沼津地域での攻防について、パネルと文書中心に展示がされていました。

実は、明治史料館の企画展示は全面的に撮影NG。
そのかわり、企画展示は、立派でわかりやすい図録(パンフレット)ありです!(1冊300円)



内容については図録をご覧頂くのが一番!なんですが・・・

HP確認したらこの企画展示の図録が載っていないようなので、入手できるかどうかは史料館に直接お問い合わせ頂くのが一番かと。。。

さて沼津市明治史料館の企画展示「駿豆騒乱 国境の攻防」では、沼津という土地柄もあって、沼津地域での戦国大名間の「境目」攻防戦をとりあげていますが、北条早雲の相模平定から、今川氏における花蔵の乱、「甲相駿三国志」ともいえる第1次・第2次河東一乱、武田氏の駿河侵攻~第1次・第2次甲相合戦・・・と本当にバラエティに富んでいます(笑)

そして、各戦国大名の朱印状や判物、制札などを展示するとともに、それぞれの合戦について各軍の動きや城郭配置図がパネルでわかりやすく示されていて、見ているだけでわくわく♪

あまりとりあげられることない(と思う)第2次甲相合戦の海戦についても、北条氏が井田真城山の人々に武田氏の船を見つけ次第のろしを上げるよう命じる印判状の展示とともに、長浜城や北条水軍、回線の動きについてパネルで説明されていました。

特に特徴的だったのが、甲相駿の3大名だけでなく、そのはざまで生き延びようとする国人領主・葛山氏を取り上げていることです。

葛山氏は沼津地域を支配する国人領主で、室町幕府の奉行衆である一方で駿河国守護である今川氏の従属下にも入っていました。また、葛山氏娘が伊勢宗瑞(北条早雲)に嫁ぎ、宗瑞の子が葛山氏を養子として継ぐなど、北条氏の一族でもありました。その上、甲斐の武田氏と所領を接するという非常に難しい位置にいました。

なので、3大名がさまざまな攻防戦を行う中で、養子縁組や外交などでその間を生き抜こうとしていた様子が、葛山氏の判物などから伺われます。

最後は武田氏駿河侵攻の際に北条への内通を疑われて滅ぼされる(信玄六男が婿養子に入って名跡を継いでますが)わけですが、それにしても考えてみたら武田・北条・今川・葛山の各氏はみな親戚同士のはずなんですけどね・・・


●三島市郷土資料館 

「駿東・北伊豆の戦国時代~北条五代と山中城」10/15~1/22


3ヶ所目の三島市郷土資料館は、三島駅前の市立公園楽寿園の中にあります。
なので、入館料は無料なのですが、楽寿園の入園料が300円かかります☆

三島の企画展は「北条五代と山中城」というテーマではありますが、「北条五代」と三島の関係というよりも、特に天正14年(1586年)~天正16年(1588年)にかけての山中城修築に関する労働奉仕命令の虎朱印から、天正18年(1590年)の豊臣秀吉掟書「環住の制札」などの戦後処理に至るまでの、「山中城攻め」についてスポットを当てた展示になっていました。

特に自分的にツボだったのは、天正18年(1590年)に山中城城将の松田康長が箱根権現別当にあてた2通の陣中見舞いの返礼状。


西股総生先生が著書「東国武将たちの戦国史」で、北条氏直が幕僚を従えて箱根の屏風山を視察している旨の記述があることから「箱根決戦構想」を展開されている、その元の文書ってこれかぁ~!一気にテンションMAX(笑)

そして、天正17年(1589年)北条氏直あての豊臣秀吉のいわゆる「宣戦布告」朱印状や、山中城を囲む豊臣方の陣取および進軍経路を図示した「伊豆山中城図」からは状況が戦いに向かっていく様子がひしひしと伝わってきましたし、山中城から出土したぼろぼろの前立てや錣(しころ)、鎧の草摺や威された状態の小札(こざね)などに、戦の様子が彷彿とされて胸にせまるものがありました・・・(><)

ここも企画展の展示物撮影は全面的にNG。
ただし、この企画展の図録(パンフレット)は三島市郷土資料館のHPからダウンロードできます!


ここで3館展示のスタンプラリーをコンプリートしたので、ご褒美をいただきました♪


なんと、企画展にちなんだ薄いプラスチック製のしおり!今川義元・武田信玄・北条早雲(なぜか・・・)の中から1種類を選ぶことができます♪ ワタシは北条バージョンをGet。




うっふっふ、三つ鱗に虎朱印♪
これだけでもがんばって3館回った甲斐があったかなww


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2017年1月3日火曜日

2017年の城初めは・・・ 騎西城と種垂城

あけましておめでとうございます。

このところ、城や古道に行きづらい状況に拍車がかかってきてネタが乏しい・・・上に、生来の筆不精にも拍車がかかってきて、なかなか当ブログも更新がされてませんが(^o^;) 今年ものんびりペースでぼちぼちとやっていきますので、よろしくお願いいたしますm(_ _)m


というわけで、今年平成29年(2017年)の城初めは、はからずも埼玉県北東部の小さなお城2つへの「寄り道」☆

もうひとつのブログ「雑記帳」の方でも書いたんですが、我が家では、毎年年始に埼玉北部の親戚に挨拶まわりに行っております(→記事「2017迎春&初詣♪」)。

その埼玉北東部の利根川に沿った地域は、戦国時代後期に小田原の後北条氏と、越後の上杉氏や関東の反北条氏との「境目地域」となっていて、こうした戦国大名や在地の国衆などによる争いも多く行われたため、城や陣も多く築かれました。

なので、以前にもこのあたりの小さな城について書いたことがありましたが(「マイナーな城めぐり@埼玉北東部」)、忍城や関宿城といった有名どころだけではなく、実は、地味~に小さい出城や砦のような城もあちこちに点在しています。

今年もそんなわけで、親戚めぐりと、そのついでの初詣のそのまたついでに・・・
駆け足で登城~!


●騎西城


埼玉県北東部の旧騎西町(現・加須市)、騎西図書館あたりにある「城山公園」に向かうと、田んぼと住宅地の中に突如「御三階櫓」風の天守が現れます!

といっても、これは模擬天守。

騎西城は、加須市のHPにも書かれていますがそもそもは天守を持たない館城だったようで、この鉄筋コンクリート三階建ての天守は、旧騎西町の町制20周年を記念して昭和50年(1975年)に建てられたものです。

現在は「郷土資料展示室」となっていて、藤まつりの期間(ゴールデンウィーク)と騎西地域文化祭(11月上旬)の期間にのみ公開しているとのこと。




もともとの騎西城は、案内板に記載されていた縄張り図を見ると、模擬天守のある場所から多少ずれたところにあったようです。




実際に本丸があったのは、現在の天守から北東に200m~300mはなれた田んぼの中のようですね!
城域はすっかり田んぼや住宅地になってしまい、発掘調査で障子堀が検出されたりしたものの、現在遺構として目にできるのは「生涯学習センター」の向かいに残るこの土塁のみです。




騎西城が文献上に初めて出てくるのは、康正元年(1455年)に古河公方足利成氏が深谷上杉氏の庁鼻和(こばなわ)憲信と長尾景仲らが守る騎西城を攻略したというもの。

その後、しばらくの動向は不明なのですが、文亀年間(1501年~1504年)には常陸守護小田氏の一族ともされる武蔵小田氏の小田顕家が城主であったようです。

その後、顕家は忍城主成田親泰の次男朝興を養子に迎え、永禄4年(1561年)上杉謙信の関東管領拝賀式後に、朝興はその兄成田長泰とともに後北条氏の傘下に入ったことから、騎西城は忍城とともに上杉軍の攻撃を受けることになります。




永禄6年(1563年)武蔵国における上杉氏の拠点である武蔵松山城が後北条・武田連合軍により落城した際に、上杉輝虎(謙信)の反撃で小山助三郎(朝興)の守る騎西城が攻め落とされています。

また、天正2年(1574年)の第三次関宿合戦では、梁田持助の関宿城が北条氏政の軍に包囲され、それを助けるために布陣した上杉謙信が騎西城、忍城、鉢形城、菖蒲城などの領内を焼き討ちして、北条軍を牽制しています。




江戸時代以降の灌漑のおかげで現在は埼玉の穀倉地帯となっている騎西城周辺ですが、中世には利根川が東京湾に流れ込んでいたこともあって、湿地帯が広がっていたようです。

騎西城についてもこの湿地帯が、「浮き城」として有名な忍城のように天然の要害となっていたのかもしれませんね。


●種垂城


騎西城から3~4kmほど南西に向かったところに「種足城址公園」という小さな公園があります。
一説には菖蒲城の支城であったともいわれる種垂城の跡です。




騎西城のところでも書きましたが、騎西城主であった小田顕家は忍城主成田親泰の次男朝興を養子に迎えました。

現地案内板によれば、その際、自身は上種足百石に隠居したということですが、それがこの種垂城ということなのでしょうか。。。




実際には、この現地案内板の他は本当にフツーの公園・広場です。
ぐるっと周囲を一周してみたのですが、遺構らしきものは何も見当たりませんでした。




念のため、公園から外に出てみましたが、目の前に広がるのはひたすら平らな「THE 関東平野!」の風景。




ちなみに、この周辺には八幡山、シロンチ(城の内)などの城に関する地名が残っているとのこと。
また、周辺の発掘調査では、室町時代の陶磁器や漆椀などステイタスの高い道具が出土していることから、城もしくは館があったことは確かなようです。

ただ、騎西城にしろ種垂城にしろ、なぜこんな「何にもない真っ平らなところ」に城が築かれたのか、ワタシにはこの立地がよくわかりませんでした・・・


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