2016年11月12日土曜日

ぐるっとさくっと上田城♪


9月始めに箱根の平安鎌倉古道で掘割道の遺構にきゃほ~い!となりすぎ、コケて右膝のお皿と右足首を骨折、その余波で右の肋骨にもヒビ入って、ついに右半身ガチンコに固められて1ヵ月半静養を余儀なくされまして・・・

なんとかギブスがとれたので、すっかり筋肉が削げ落ちてよろよろする足のリハビリにいそしんでおりましたが、ここへ来てやっと杖なしでさくさく歩けるようになりました!

そこに所用で上田に行くことになりまして~♪リハビリも兼ねて上田城をぐるっとさくっと回ることに。(^^)v

まずは、上田市指定文化財の「上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁」。




ちょうど紅葉が綺麗になってきてたのですが・・カメラ持ってこなかった~!(><)
やっぱ、スマホだと上手く色が出ないですね ← スマホのせいにするw




藩主の居館は真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県立上田高校の敷地にあったそうで、門は寛政2年(1790年)の再建、土塀は江戸末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残しているのだとか。

上田高校の脇から上田市役所前の大手門通りに抜けて西に向かうと、正面に上田城が現れます。




大手門通りと上田城址公園内に入る二の丸橋とは鍵の手状にずれているのが、なんともお城らしくていい感じ♪

この橋を渡ったところにある石垣が、上田城二の丸にあったという3ヶ所の虎口のひとつめ、二の丸東虎口の跡です。

そして、この二の丸橋の欄干に書かれたヘンなマーク?は「2(つ)の丸+ハ+シ)なんだそうです・・・(^o^;)




二の丸橋の下を通るケヤキ並木遊歩道は二の丸堀の跡です。
ちょうど紅葉が見ごろで、お散歩するのにいい感じ!




解体予定だった城内の旧上田市市民会館は、平成29年1月15日まで「信州上田真田丸大河ドラマ館」になっています。
真田丸人気で、朝も早くから観光客が結構来てる!

ドラマ館の営業が終了したら展示物は撤去されてしまうそうなんですが、上田市はVRを使った上田城の大画面上映や真田氏ゆかりの品の展示などを検討してるそうで、どうなるかそちらも楽しみですね~♪






ドラマ館のある二の丸から本丸に入る土橋の上は、東虎口の櫓門や武将隊の方々の写真を撮る人々でごった返してましたが、へそまがりなっちは人々とは全然違う方向にくるりと向いて・・・




土橋の上から南側を見る!

・・・と、空堀の向こうに堀をせき止めてるかのような石垣と排水溝のような穴。
これ、実は、NHKの「ブラタモリ」で上田がテーマだったときに取り上げられてた、隠れた見どころなんです!

この石垣の向こうはその昔千曲川が流れていたという「尼が淵」の跡なので、この穴はそちらにつながっていたのでしょうか。。。
ということは、もしかしたら水堀としての用途で作られたのかもしれないですね☆

さて、多くの方はこの土橋から中に入って真田神社にお参りするようなのですが、これまたへそまがりなっちは土橋を渡らずに、その手前から右に曲がります☆




おお!本丸堀越しに見える紅葉と2つの櫓が風情ありますなぁ~♪
そのまま本丸堀の外側に沿って歩いていくと・・・




対岸の土塁がぐいっと内側に凹んだようなカタチになってる!

これは、本丸土塁の隅欠(すみおとし)といって、本丸土塁の北東(丑寅)隅をわざと切り込んで「四角を欠けさせる」ことで「鬼門よけ」としているのだそうで、二の丸堀でも北東を鍵の手に折り曲げるなど、上田城の各所でみられる特徴だそうです。




隅欠から堀を離れて北側に向うと、突然ど~ん!と目の前に現れる石垣。
上田城二の丸にあったという3ヶ所の虎口の2つ目、北虎口の石垣です!




この北虎口には現在2本の石垣がありますが、そのうち北側の石垣の西端のみが築造当初のもので、他は平成になってからの復元整備したものだとか。

この虎口と石垣は正保4年(1647年)の上田城の古図にもしっかり描かれています(赤丸印)。





この赤丸印の土橋の両側は堀だったのですが、左(西)側の百間堀跡には現在すっぽりと陸上競技場が納まっています。




この陸上競技場全体が堀だったなんて!ひ、広い・・・☆




また、陸上競技場につながる通路に沿って、虎口からの土橋の側面に積まれた石垣がよく見えます。

水を通すための石樋まで残ってる!
これは二の丸堀の水抜きのための石樋の出口だそうで、元禄15年(1702年)の修復の際につくられたそうです。

まさに陸上競技場が堀だったことを示してますね~☆




北虎口の西側の招魂社の境内は、厳かな中にも紅葉が華やかに彩っていて、秋らしい風情です♪




・・・が、ついついお社の裏手に広がる土塁の方に気持が行ってしまう~(^o^;)
この土塁は北虎口からずっと続いているもので、この向こう側は百間堀(陸上競技場)。

そのまま西へ向うと、二の丸の3ヶ所の虎口の3つ目、西虎口の跡に着きます(赤丸印)。




古図でみると当時は石垣と土橋があったようですが、現在では全く残っていません。
土橋の代わりに小泉橋がかかっています。




橋の右(北)側は百間堀の続き。これまた野球場がすっぽりと納まっています。




橋の左(南)側は、尼が淵の方へと落ちていく二の丸堀の跡。
正面行き止まりのように見えるのが、古図にも描かれている二の丸堀のクランクで、右方向に曲がっています。




二の丸内の花木園から二の丸堀の土塁に登ると、このクランクがよく見えます。




この写真の左側が、小泉橋から正面に見えていた土塁。

仙石氏時代上田城の古図によると、実は当時この土塁に煙硝蔵が設けられていたようです(赤丸印)。土塁の上に小さ~く見える人と比べても、この土塁の規模の大きさがわかりますね!




さて、堀は右手方向の小泉橋からこの土塁でクランクして、またすぐに左(南)側の尼が淵方向に曲がって、下っていきます。




この写真の道路が、曲がった先の二の丸堀の跡です。
そして、向こう側のグラウンドが、古図にあった小泉曲輪。ということは、百間堀ほどではないにしても相当な規模の堀だったんですね!

さて、二の丸堀の土塁から城の内側に降りると、すぐに本丸西櫓と西虎口です。




現在、上田城の中でこの西櫓のみが、寛永3年(1626年)からの復興工事の際に建築された当初の部材と外観をそのまま残しているそうです。




この西櫓と櫓に連なる石垣でがっちり守っているのが、本丸に2ヶ所あった虎口のひとつ、西虎口(赤丸印)。




この西虎口の石垣の天端(てんぱ)に2ヶ所の凹みがあって、何のための凹みかなぁ~と思っていたら、どうもこの場所にあった櫓門の下層最前列の冠木と最後列の敷桁を載せるための切り欠きなのだとか。。。




そういう目でよく見ると、切り欠きの真下にあるこの石はもしかして門の礎石?!
確かに、通路の反対側にも同様の石がありました・・・




西虎口から本丸土塁に上ります。古図によると、元はこの上に隅櫓があったものと思われ。
土塁の断面?がよく見えます。もとはもっと手前まで土塁があったのかも?




土塁上の隅櫓あとから見る西櫓。秋ですね~☆




本丸土塁上には、それぞれの角に隅櫓があったそうです。
今は跡形もありませんが・・・(^o^;)




そして、先ほど二の丸側から見た隅欠。本丸土塁からみると、ぐっとえぐれてる感じ。
隅欠にはその凹みの両側に隅櫓があったようです。




そのまま本丸土塁上を歩いていくと、やがて本丸東虎口に。
北櫓にかかる紅葉が綺麗じゃ~♪




東虎口にある南北2棟の櫓は、明治8年(1875年)に払い下げられて上田遊郭に移築されたのを、市民により結成された「上田城址保存会」により買い戻されて、昭和24年(1949年)に現在地に復元されたのだそうです。




Twitterでの某フォロワーさんに捧ぐ、櫓門内にあった「密かに人気のリアル系」乳金具(笑)

櫓門から本丸側を見ると、真正面に真田神社。せっかくなのでお参りして怪我した足の平癒をお祈りしまして・・・




しっかり御朱印も頂戴いたしました。ただし、25分待ち☆

別の城ともフォロワーさんによれば、2年前には神社の方も1人しかいらっしゃらなくて、御朱印をいただける雰囲気ではなかったとのこと。これも真田丸効果なんですかねぇ・・・




御朱印を待っている間に、神社の裏手から西櫓のそばまで登って、現在は駐車場になっている尼ヶ淵をぼぉ~っと眺めまして。

築城当時は、ここに千曲川の淵があって、淵とこの河岸段丘の高低差が天然の要害となっていたというのが実感されますですねぇ・・・

西櫓の脇から急な階段を下りて・・・




尼ヶ淵の方から西櫓を見上げると、またその高低差がひしひしと感じられます!
千曲川の流れを渡ってさらにこの高低差を登るなんて、ないわ~☆

尼ヶ淵を石垣に沿って歩いていくと、「ブラタモリ」でも取り上げられた石垣の中の算木積み発見!




本来石垣の隅に用いられるはずの算木積みが石垣の中に埋もれているということは、古い石垣が新しい石垣の中に取り込まれてしまったということで・・・

「ブラタモリ」では確か、もともとは船着場の階段と踊り場として作られたのではないかという説を紹介していましたね♪




しばらく進むと、今度は石垣の上に本丸東虎口の南櫓が見えてきます。

その右側(東側)にある石垣は、最初に二の丸橋から見えた空堀をふさいでいて排水溝のあった石垣です。




よく見ると、赤丸で囲ったあたりにまたもや算木積み・・・

赤線の下側と上側とでは石の色や形も違うように見えるので、もしかしたらここも元々の石垣が新しい石垣に取り込まれて今のカタチになったのかもしれませんね。




尼ヶ淵から北側に折れて坂を上ると、そのまま二の丸橋の下を通るけやき並木遊歩道(二の丸堀跡)に入って、ぐるっとさくっと上田城址公園ほぼ一周。

お疲れ様でした!お城も紅葉も堪能できて、リハビリにはもってこいのルートでしたね~(笑)
この調子でどんどん歩いて、早く山城歩きにも復帰したいな♪




ちなみに上田駅で「幸村戦べんとう」なる駅弁を購入したので、ご紹介。

長野のブランドとして売り出している「信州地鶏黄金シャモ」の醤油麹焼きとか「千曲川サーモン」の塩焼き、飯山産コシヒカリみゆき米のおにぎりなどが入っていて、なかなかに美味しかったです~☆


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2016年9月3日土曜日

徳川家康も進軍した?箱根古城と平安鎌倉古道あるき

「平安鎌倉古道」については、最初にいつ耳に(目に)したのかもう定かではないのですが・・・

三島市のHPにも、「平安鎌倉古道」は豊臣秀吉による山中城攻めの際に徳川家康の軍が進んだ道といわれている旨の記載があり、土屋比都司先生の「駿河伊豆の城と中世」という御本にも、その平安鎌倉古道と、古道を押さえる関所のような古城(箱根古城)について記載がされています。


それによると、平安鎌倉古道というのは「日本紀略」に記載のある、延暦21年(802年)の富士山の噴火によって官道であった足柄道が通行不能となったために代替ルートとして開かれた、箱根峠から扇平、元山中を通って願成寺台地(河原ヶ谷城跡)から三島大社に至る延長約15kmに及ぶ「箱根路」と推定される道を指しているようです(上の地図の赤線)。

そして、鎌倉~室町期には現在の旧東海道にほぼ沿った新道(江戸時代の東海道・地図の青線)が開設され、鎌倉時代には古道が主流であったものの、後北条氏支配の時代には軍道として古道・新道双方が同じように機能しつつ、徐々に使用頻度が新道に移行していったものとみられます。


というわけで、ぼそっと「箱根の平安鎌倉古道を歩きたい~♪」とTwitterで呟いたら、4人のフォロワーさんが賛同してくださり・・・総勢5人、三島駅に集合して芦ノ湖畔の箱根港に行くバス🚌に乗り、箱根峠(正確にはその1つ手前)のカントリー入口バス停に降り立ちました~!


事前に入手していた平安鎌倉古道のウォーキングマップの目印を参照しながら、まずは芦ノ湖高原別荘地の中にある古道の入口を探します。


これは、バス停から500mほどのところにある箱根旧街道(江戸時代の東海道)の入口。今回目的の平安鎌倉古道はここではありません!
さらにさらに別荘地の方へ進んでいきます。


ちょうど箱根外輪山の外側斜面を横移動してる感じなので、眼下に三島の市外が一望できます。めっちゃいい景色!

豊臣軍がひしめいてる様子までは、さすがに見えなかったとは思いますが・・・(^^;)


まだかまだかと思いながら進むと、結構遠い(^o^;)
途中で道は芦ノ湖ゴルフ場の中へと入っていくように思えるので、かなりビビります☆

この案内標が大事!うっかり見落として違う道に進みかけて、たまたま通りかかったゴルフ場整備(別荘地整備か?)の方に教えてもらって、迷子にならずにすみましたが・・・(笑)


結構古道を求めてさまよう(?)人が多いのか、別荘地の案内板に古道入口が手書きで補足されてる(笑)

バス停から2kmほど。古道の入口にはわかりやすく、石の道標とともにカワイイ手書きの立て札が立ってます。
やっとここからが、いよいよ平安鎌倉古道~!


と、喜び勇んで一行の先頭切って古道に入っていったワタシでしたが・・・

古道に入ってすぐの下り道で、木の階段に足を取られて前のめりにすってんころり!!!ひざを思い切りぶつけて、しばらく悶絶。
実はこれが後々、尾を引くことになるのですが・・・


とりあえず、腫れや外傷はほとんどなかったので、応急手当して再出発。
すると、さほど歩かないで現れる鉄塔のすぐ先に、いきなり見事な土橋出現!!!


もうこうなると、次の瞬間には直前にすっ転んで悶絶したことなど頭からどこかに飛んで行っちゃって、遺構に夢中~♪

土橋の真正面にはこの古城の主郭と思われる尾根上の郭が立ちはだかっているので、狙い撃ちにされてますが(笑)


この土橋を渡ると、箱根古城の城域に入ります。
向かって右手(北側)がこの古城の主郭と思われる最高部。左手(南側)は低いほうに向かって段郭が並んでいます。


そして、中央を掘割状の古道が東西に通っています!
土屋先生によると、この掘割道手前の削平地はこの城の中枢部で、関所があったのではないかとのこと。

なるほど、真ん中を通る掘割道を関所でふさいでしまえば、両脇の郭から狙い放題ですね☆


この削平地から写真右手の主郭?方向には、登り道にもなるような土塁が続いています。


主郭?のある尾根上は、2本の堀切で尾根が分断されて、小さな郭が並んでいます。
堀切の1つを撮ってみましたが、藪でよくわからない~ので、ココロの目でみてくださいwww


さて、またもとの削平地に戻って、今度は掘割状の古道を下って行きます。


どんどん深くなって、その分、両脇の郭から見下ろされることになります☆


薬研堀のような掘割状の古道が山の中をずっと続いていく様は、ある意味圧巻です☆
これが水の流れる「沢」や「川」ではないのが不思議な感じ。。。


両側は郭と思われる削平地。
特に南側は、細く続いて土塁のようになっています。


古道を下っていくにつれ、古道と左右の郭とはどんどん高低差を増していき、やがてそのまま城外へ出ていきます。


箱根古城については、土屋先生の「駿河伊豆の城と中世」によると次のとおりです。

「箱根古城は、鎌倉古道を含む箱根峠一帯の緊張が高まった建武2年(1335年)頃に箱根側を守る者によって創築されたとみられる。その後は一時的に廃されたであろうが、室町時代には大森氏が管理する関所を擁する城として存在したが、~(中略)~ その後、北条氏の小田原進出によって大森氏の手を離れ、箱根古城は小田原本城の背後となる箱根を守る、鎌倉古道の押さえとして活用された」


つまり、この箱根古城は、平安時代から箱根越えに使われている古道の押さえとして、室町時代ごろには存在していたらしいということなんですね・・・


「天文6年(1532年)から始まる河東一乱で ~(中略)~ 今川市との境目城であった長久保城が敵の手に渡ってしまうと、小田原本城を守る境目城としては、鎌倉古道に箱根古城があっても、新道を守る境目城が必要になってくる。すなわち北条氏は箱根を防衛ラインと考えて、そのために築城したのが山中城であったのである、(以下略)」

ということで、だんだん役目は山中城に移っていったようですが・・・この大規模な掘割状の古道の部分や、古道に面した郭の土塁など、もしかしたら北条氏が修築してるんじゃないかという感じもします。


城域を出てからも、大規模な掘割状の古道はまだまだ続きます。


途中、道が二筋に分かれているところも。
そういえば武田軍が小田原攻めで通ったという相原~御殿峠の古道にも、こんな感じに本道と側道に分かれてる所がありましたっけ(→記事はコチラ)。


ところどころ鍵の手に曲がりながら、古道はどんどん山を下っていきます。
道の所々にはこんな案内板も。地元の方々が整備してるんですね!


途中、道の状況が「そろそろ古道遺構も終わりかな・・・?」という感じに思えてくるころ、道から少し外れた斜面に掘割状古道遺構に見える地形が見えて、その大規模さについつい道を逸れてしまって・・・


迷子になって、時間と距離を大幅にロス!(上がその迷子写真です☆)
指示されている道が次のようにフツーの感じになったりしても、惑わされてはいけませんでした(笑)


なんとか斜面から古道と交差している林道に転げ出て、また木立の中に続く古道へ。


林道からの入口は狭いのですが、中に入っていくとまたすぐに古道遺構が現れます!


このあたりでは、人が頻繁に通るあたり1~2m幅に抉れている部分が古道遺構に見えてしまうのですが、実はその左右に数m幅で土塁が並行して続いていて、恐らくそこも全部含めて古道遺構と思われます。


左右の土塁、わかりますか・・・?


さらに下ったあたりでは、地層が見えるほど道が抉られてしまっていて、もとの道幅が分かりにくくなってますが・・・


今回の古道歩きにあたって参考にさせていただいたブログの1つに、ここで露出している地層から、道路遺跡でよく検出される路面底の凹凸(波板状凹凸面)がみられるとありましたが・・・


ド素人の目にはまったくわかりませんでした(^o^;)
この地層って、そうかな・・・?

ところどころに平安鎌倉古道を示す石碑が建っているのを確認しながらしばらく進むと、やがて木の柵が道をさえぎっている地点に来ます。


広域基幹林道「北箱根山線」との交差地点です。
ここにはお手洗いと古道の説明板があって、座れるような場所はないものの、ちょっとした休憩スポットになっています。

別荘地の古道入口からこの地点まで、約3km。途中古城をうろうろしたり迷子になったりしたので、もっと歩いてるような気がしますが(^^;)


ここに建っていた三島市教育委員会の解説板(平成4年)ではこの古道について、鎌倉時代に「十六夜日記」の作者が通ったことを例にあげて、足柄峠越えに比べて険しいが距離が短いなど便利なため平安~鎌倉期に多く利用されたことを紹介しています。

また、江戸時代に箱根旧街道がつくられてからは、地元の人がとおるだけになったこの古道の元山中・山ノ神神社付近を、平成2年にゴルフ場建設にあたって発掘調査したところ、中世の古銭や銅製品、漆器、陶器などが出土して、平安鎌倉古道が確認されたとのことです。


林道を通り越して木立の中に入っていくと、またもや見事な古道遺構が続いています。
このあたりが扇平なのでしょうか。古道は続いているものの、そろそろ普通のハイキング道のようになってきたな、というところで・・・


なんかズボンの右ひざの伸びが悪い感じで歩きにくいな・・・と思って見て見たら、最初にすっ転んでぶつけた右ひざが内出血して、ズボンがはち切れそうなくらいに腫れあがってる!

ここまでアドレナリン出まくりで痛みはほとんど感じてなかったのですが、気がついてしまうとなんとなく痛くなってきちゃいまして☆


それでも山の中なのでどうしようもなく、足を引きずりながら2kmほど歩いて、天正18年(1590年)の小田原攻めの際に、徳川軍が山中城を背後から攻めるにあたって陣を設けたという「山神社」に到着。

なんだかカメラまで調子悪くなっちゃってます(^^;)


そして、元山中の関所跡。
このあたりからちょうど谷を挟んだ向こう側の尾根上に山中城があります。

ちょっと邪魔な電柱の右側あたりです☆
徳川軍はこの関所あたりから一度谷に降りて、山中城に向かって登っていったのでしょうか。。。


甲陽軍鑑の品第三十七には「永禄十三年九月はじめに信玄公伊豆にらやまへはたらき給うに、氏康は出なされず子息氏政三万八千の人数をもって、山中に馬をたてられ候~」とあります。

永禄13年(1570年)といえば、武田信玄の駿河侵攻に伴って武田軍と北条軍が三島付近で対陣していた時期ですが、北条氏政が本陣を置いた「山中」がこの元山中を指しているようです。

なぜ徳川軍も北条軍も、この元山中関所あたりに陣を置いたのかなぁ・・・

本当は直に地形や位置関係を確かめたかったのですが、すでにこの時点で足の方もギブアップ!同行のメンバーにタクシーを呼んでもらって、そのまま病院へ。

そのままオフ会は流れお開きとなってしまい、同行のメンバーには病院の付き添いから新幹線に乗るまで面倒を見てもらうなど、多大なご心配、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ないことでした。ごめんなさいm(__)m

どうと言うこともないと思っていた怪我のほうは、結局右足首・右ひざ・肋骨の3ヶ所骨折してて、その後しばらく自宅療養するハメに☆

それにしても、我ながらよくもコケた後に約5kmにわたる古道遺構を見ることができたもんですが・・・

これでもまだ最初に掲げた地図の1枚目のみ。つまり行程の半分しか歩いていないので、しっかり足を直してまたリベンジしなきゃです!


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