2012年11月9日金曜日

丸岡城登城記~城ガール隊遠征その3~




さて、一行15人を乗せた3台の車は、北陸自動車道敦賀ICより高速道路に入って敦賀に別れを告げ、一路福井へ。

途中「日本一のメガネ産地」鯖江市のあたりで、車窓から「巨大なメガネが山腹にある」のを教えてもらって大喜び!

(写真、山腹の白い四角の看板にメガネが書いてあります・・・メガネの形じゃなかったのがちょっと残念(^^;))

遅めの昼食は南条SAで名物「越前そば」と「へしこ丼」・・・へしこ?

私は今まで「へしこ」って見たことも聞いたこともなかったので、これは思わず両方とも食するっきゃない!

というわけでおそばにミニへしこ丼をつけてもらってセット風にしてもらったら・・・いや、へしこ丼美味しい!はまっちゃいました☆

「へしこ」ってさばのぬか漬け(?)、若狭の伝統保存食なんですね。

発酵食品らしい深みのあるしょっぱさがご飯にすごくマッチして、私好みで最高!

このしょっぱさは、むしろ関東以北の人間にはなじむかも・・・
ってことで、後日帰宅の際には、しっかりへしこを買い込んでしまったワタシ(^◇^;)



それはさておき・・・

初めての福井県、見るもの聞くものみんな物珍しくて、いろいろ楽しみながらも次の城攻めです。
やっぱ、城ガール隊の遠征ですからね(笑)

で、到着したのは、現存天守では最古の建築様式を誇る丸岡城です。

 

丸岡城は、福井県坂井市(福井市のお隣)の小高い独立した丘陵に築かれた平山城です。

明治になって民有になり、建物(館・門・塀・武家屋敷など)は売却され、石垣は壊れるままに放置され、周囲に廻らされていたという五角形の内堀(一番左の写真の絵図)も、今は埋め立てられてしまって見当たりません。

唯一、安土桃山時代に建造されたと推定されている天守が残りましたが、これも、昭和23年の福井地震で倒壊したんだそうです。

その後、天守は昭和25年に重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建されました。
現在は本丸の天守と、わずかに野づら積みの石垣が残るのみなのだそうです。




天守に入る石段の脇にヘンな石が置いてあります。

実はこれ、かつて天守の上に乗っていた「鯱(しゃち)」なんです(*_*)

全国でも珍しく、この天守の約6000枚の瓦は、なんとすべて笏谷石という石でできているんです。

で、この鯱も笏谷石でできているんですが、福井地震で天守から落ちてしまったので、現在は木造銅板張りの鯱が屋根に乗り、石造りの鯱はこの場所に保管されているというわけです。

でも、多少崩れているせいか、よくよく見ないと鯱には見えないですよね。

大きな長靴のモニュメント・・・?(笑)


天守の中に入ると、すぐ目の前にものすごく急な階段。
靴を脱いでスリッパに履き替えて中に入るのですが、このスリッパがつるつるに磨かれた階段で滑るので、みんな余計に上り下りに大苦戦なのです。


 

上の階に登ると、周囲に「石落とし」という狭間(右の写真)が廻らされています。
石垣を登ってくる外的に対して、ここから石を落としたり、弓や鉄砲を撃ったりするわけです。

他の階では、窓から外を見ると・・・一面に笏谷石の瓦!
1枚が20~40kgあるので、屋根全体で120tもあるんです!

だから、通常の建物のような通し柱で支えるのではなくて、一層が二層三層を支えて重さを分散させるのだ、と入り口のところにいたボランティア案内人のおばさんが親切に教えてくれました。
(階段の降り方についても教えてくれましたが・・・) 




天守を出てきて・・・普通ならここで「あ~素敵だったね~!」と終わってしまうところです。

周囲を見ても、ぱっと見には何も見どころはなさそうだし・・・

ところが、そこは城ガール隊。

幹事さんが作成してくれたパンフレット資料の中に「丸岡城の全貌はほとんど失われているが、旧外堀はところどころ旧状をとどめており」と書かれているのを見て・・・


「行ってみよう!」




もうすでに午後も夕暮れに近くなってきてはいたんですが、本丸を降り、縄張り図を見ながら城下の町中へ。


天守の中でボランティア案内人のおばさんが言ってたんですけど、天守のある本丸の下の道路はその昔の堀底らしい。確かに、ぐるりと堀っぽい雰囲気。






縄張り図をみながら「あっちだ」「こっちだ」と道路ばたでわいわいやっている女性ばかりの集団・・・異様だったのかもしれませんね(笑)


「浄學寺」と刻まれた石標のあるお寺の門前で、立ち話をしていた3人のかわいらしい感じのおばあちゃんsに「あんたたち、どっから来たの?」「なにしてんの?」

「お城の外堀の跡をさがしてるんですよ~」と話をしたら、「ちょっと先の川がそうだよ」

なんでも、おばあちゃんsのひとりがこのお寺の方だそうで、お寺自体も「旧丸岡藩家老屋敷の跡」なんだそうです。

・・・へへ~! m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m

で、そのお寺の裏側の方に「キリシタン灯籠」があるんだと教えてもらいました。

一番右の写真がそれです。支柱のふくらみで十字架を表しているのだそうで、柱のくぼみの中にある人のようなでっぱり形が「マリア様?」


またみんなでぞろぞろと教えられたとおりに歩いて行くと・・・あったあった、小さな川と橋。

これがところどころ残っているという外堀の遺構らしいです。

この川(?)に沿って歩くとすぐに「公園」ぽい、公衆トイレ付きのこぎれいなスペースが現れて、その先には堀の曲がり角と、堀の他の部分とは明らかに違う石の積み方の「石垣」。

これまたみんなでぞろぞろと石垣を見ながらシャッターを切っていると、石垣の上にいたおばちゃんが「そんなとこでなにやってるの~?」

堀の向こうから「この堀はね~」といろいろ教えてくれるんです。

ふと気がつくと、さっそくkaiさんやゆうりさんが堀の向こう側に回り込んでおばちゃんに取材中。



やはりこの堀はその昔の外堀の一部だそうで、堀の石積みはほとんどがコンクリート護岸になっているんですが、この部分だけむかしのままの石積みが残っているんだそうです。

で、ここにいた2人のおばちゃんは「確かうちにお堀やお城の図面とか資料があったよ!」とわざわざ家に戻って見てくれようとするんです。

さすがにそれは申し訳ないので遠慮したんですが、昔の城下町のことや堀の埋め立てのこととかとも四方山話でいろいろお話してくれました。

本当に先ほどのおばあちゃんsもですが、この町ではみんな親切で、そしてお城や城下町のことを誇らしげに話してくれるんです。

学校でも地元の歴史を教えたりしてるんでしょうけど、やはり「城の歴史=町の歴史」そこで暮らす人達の歴史なんだなぁ・・・と実感です☆

一日中、敦賀~丸岡とあちこち歩き回って、城ガール隊福井遠征の第一日目も暮れました。
夜は福井市内で懇親会。飲んで食べてお城談義に花が咲きました。

お疲れさまでした。かんぱーい!




2012年11月1日木曜日

敦賀城・・・そして。 ~城ガール隊遠征その2~

さて、行程では金ヶ崎城の次は敦賀城。。。

大谷吉継公の居城として知られる敦賀城は、笙の川河口を埋め立てて奉行所を設置し三層の天守閣が造営されるなど、広い城域であったようですが、関ケ原の戦いで吉継公が西軍について敗北した後東軍に引き渡され、元和の一国一城令で廃城となったということです。




今ではすっかり市街地と化してしまって城は姿を消してしまっていましたが、縄張り図を見ながら、城域だったであろうという真願寺に行きました。


・・・が、「城址」らしきものは影も形もみあたりません。


お寺の外壁がなんとなく石垣と白壁で「お城ちっく」ではありますが、これはあくまで後世の(というよりも現代の?)ものらしく、お寺の門前に「大谷吉継 敦賀城跡」と刻まれた石碑が建っているのみです。

とりあえず、城址のモニュメントですので、ここで城ガール隊の城攻め恒例(?)「おおたににゃんぶ」殿と「いしだみつにゃん」殿の記念撮影~☆

特に縁の地でもありますし、石碑の足元にうれしそうに(?)さりげなく写ってるのがわかりますか?(笑)





境内に入ってみると、本堂の脇にそっと「敦賀城礎石」と刻まれた石とともに礎石が残っています。

これは敦賀城乾門の礎石だということです。


HPその他の資料によると、現在敦賀城の面影を偲ばせる遺構というのは、この真願寺の「乾門礎石」と、北側の堀跡といわれる真願寺そばの闇加川、敦賀城裏門の移築といわれる来迎寺表門、八幡神社の境内の表門の礎石くらいしか残っていないようです。

あとはわりと最近に遺構が発見されたということで、敦賀西小学校の正門横に大きな城跡碑が建てられているとか。

真願寺以外はいずれも今回行かなかったんですが (^^;)



で、乾門礎石を確認した後、他に何かないかな~とぐるぐる真願寺の境内を歩き回り、本堂真っ正面の参道に出て門を振り返ってみたら・・・






さりげなく目立たなく、「敦賀城 中門」と書かれた木札が建っている?

しげしげとしばらく眺めてみましたが、結構簡素な門構えで普通のお寺の山門っぽい感じもしましたが、真ん中の写真、門から続く外塀のあたりが堀っぽく見えなくもないか・・・?

縄張り図とは全く一致しませんが。

次に右側の写真、「堀跡」であるという闇加川に沿って歩いてみました。

こちらは縄張り図に一致しているようです。が、途中で住宅地に阻まれてしまい、縄張り図をたどっていくことは難しい状況でした。


この写真は、金ヶ崎城から真願寺に向かう途中で立ち寄った敦賀市内の永賞寺境内にある、関ヶ原の合戦の9年後に建てられたという大谷吉継の供養塔です。

実際歩いてみると、敦賀城自体は跡形もなくなってしまっているけれど、市内のあちこちに縁の場所はあるみたいなんですね。

大谷吉継は賤ヶ岳での活躍や石田三成とのエピソード、関ヶ原での見事な散り際など、戦国武将として非常にメジャーな存在だと私は思っているのですが、それでも実は、敦賀城を居城としていたことや、そもそも敦賀城の存在を知りませんでした。

今回城ガール隊の誰かがぽつりと言っていました。せっかく有名な武将のいた地なのだから、もっともっとそういった場所も含めて敦賀や敦賀城をアピールすれば、もっと訪れる人も多くなるだろうし、敦賀のことも知ってもらえるのに、敦賀の人って奥ゆかしいよね・・・と。

本当にそうだなぁ、としみじみ思いました。


真願寺周辺にてうろうろと遺構を探し求めた後、今度は「つるがみなと山車会館」へ。

「山車」と書いて、私の住んでいる埼玉あたりでは「だし」と読みますが、敦賀では「やま」というのだそうです。敦賀まつりで使われるこの「山車(やま)」を展示しているのがこの会館です。





山車はただ置いてあるだけでなく、下の台座ごと動くようになっていて、収納庫の扉が開いてこちらに向かってせり出してくる様はなかなかの迫力です☆

また、ロビーにひっそりと敦賀城を取り巻く地理関係を表した絵図面や発掘調査についての展示がされていて、私なんかむしろ山車よりもそちらの展示にかぶりつきになってました(笑)






ロビーの売店ではいろいろグッズも売ってたりしたので、総勢15人でうろうろわいわいしていると、受付のところにいた案内の方々や館長さんまで出てきて、いろいろと話しかけてくれました。

で、城に興味を持つ「城ガール隊」の一行だと知ると、敦賀城と町のことを話してくださったり、ひとり一部ずつ封筒入りの資料を用意してくださったり、キャラクターのシールをくださったり・・・

すごく親切に相手をしていただけました。

資料も、なんと敦賀城と大谷吉継のものばかり。なんと敦賀城の発掘調査に関する資料まで入ってる・・・! あまりこの会館のPRにはならないだろうに、なんてやさしいんだぁ~!

最後は集合写真まで撮っていただいた上、駐車場まで送りに出てくださいました。
「つるがみなと山車会館」の皆さん、本当にありがとうございました!
でも、「皆さん、学生さん?」にはマイッタなぁ~☆ 
確かに大学卒業したてくらいの年齢のメンバーもいたけど、ほとんどのメンバーは・・・なんだけど(笑)

さて、山車会館の後は敦賀を離れて、福井は丸岡城へ向かいます。
その報告は、また次回。(^ω^)ノシ