伊豆の下田公園は、中に後北条氏の下田城(鵜島城)の跡があるので、別名「城山公園」とも呼ばれています。
もうひとつのブログ「つれづれなるままに・・・natchdesの雑記帳」にも書きましたが(→ 記事は
コチラ)、今回はばあちゃんとの旅行なので、城攻めは封印・・・とは思ったものの、やはり城好き後北条氏好きのワタシとしましてはちょこっとでも見に行きたいな~☆
「現在地」のところに下田海中水族館の駐車場があって、下田城は、そこからくねくねと山を登っていった上の尾根筋に広がっています。
後北条氏の水軍の根拠であった下田城は、説明版によるとこんな感じ。
「伝・天守台」を中心に、北側方向の各尾根に郭が展開されていて、また、各尾根に抱かれた感じの入り江に船溜まりがあったようです。
ということで、ばあちゃんには下田海中水族館でも見ててもらって、その間にさくっと攻めてこようか、と思っていたら・・・ばあちゃんが「私も行く!」
はあ~?!
なので仕方なく、下田公園の散策路の急な坂道をばあちゃんとゆっくりゆっくり登って、とりあえず公園内のお茶ヶ崎の展望台へ。
お茶ヶ崎の展望台は、散策路からちょっと海側に突き出した場所にあって、東屋でひと休みできます。
そして、ちょうど海中水族館の真上にあたります。
よくよく見ると・・・なんとイルカのショーをやっているのが、ばっちり見えるではありませんか~!
ばあちゃんにイルカショーを堪能してもらっている間に周りをぐるっと見渡すと・・・
水族館の先の赤根島の左右からの港への船の出入りがよく見えます!
下田城は、豊臣秀吉と後北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588年)に後北条氏の水軍の拠点として取り立てられました。
そして、伊豆郡代の清水上野介康英が城将となって北条水軍や南伊豆の武士が城に入り、大改修が行われるなど臨戦態勢を整えたのですが、天正18年(1590年)3月には、豊臣方の水軍が脇坂安治、長宗我部元親、久喜嘉隆に加藤嘉明税や毛利水軍等が加わった総勢1万人以上の圧倒的な兵力をもって襲来。
籠城した約600名程度の後北条方は、50日あまりの攻防戦の後に勧告を受け入れて開城しています。
お茶ヶ崎は下田城の物見櫓があった場所のようなので、城兵も海に展開する豊臣方の水軍の様子をここから見ていたんでしょうか・・・
下田城の縄張り自体はお茶ヶ崎とは山の反対側、下田港方面の稜線に展開しているようなので、ばあちゃんとともに散策路にもどって、引き続きのこのこ登っていくと・・・
ん?山腹をぐるりと回る散策路の脇に、いきなり尾根筋が抉り取られたような場所が出現。
これはもしかして・・・と散策路にばあちゃんを残して、がさがさと道から斜面を登って見ると。。。
ビンゴ!
今回は下田城に来ることを予定していなかったので予習も縄張り図持参もしてなかったんですが、スマホでwebをいろいろ検索して見ると、どうも南郭の堀切のようです。
堀切を散策路の反対側に抜けると・・・
土塁に突き当たって直角に折れて、そのまま郭を取り巻く横堀になっている!
そのまま横堀の中を進んでいくと、うっすらと畝状になっているような・・・?
光の加減でうまく撮れませんでしたか・・・ココロの目で見てくださいませ(^^;)
しばらく横堀を進んでいくと、横堀は地形に沿って?一度がくんと落ち込んで、そのあと緩やかに下りながら続いていきます。
この横堀を本郭(伝・天守台)と南郭の間の堀切の方まで降りていって、横堀を振り返ると次のような感じ。
畝・・・あるようにも見えるし、光の加減の凸凹にも見えるし(笑)
横堀はそのまま本郭の南側を回って、西側の海のほうへ続いていくようです。
散策路からも見ることのできるこちら側(本郭の南西側)の横堀のほうが、畝がはっきり見えるようです。
後北条氏の城の特徴とも言われる畝堀・障子堀は山中城のものが有名ですが、実は下田城も後北条氏の畝堀をじかに見ることができる、数少ない貴重な城跡でした!
そして、これが本郭と南郭を分断する堀切。写真の向かって右が本郭、奥側がたどって来た横堀のある方向で城の南側斜面になりますが、なんと岩盤を掘り切ってる!
ちなみに、ばあちゃんを取り残した散策路は写真の手前、南郭の尾根の北側斜面に横に通っていまして、案内板に描くとこんな感じの位置関係。
緑色のラインが散策路。ワタシはエンジ色の丸のところにある堀切から青色の←に沿って進んで、赤丸の堀切(本郭と南郭の間)から緑ラインに出たのですが、ワタシに姿をくらまされてそのまま散策路に放置されたばあちゃんは、「とにかく『伝・天守台』と書いてある方に向かって!」と言いおかれたものの、さぞ心細かったことでありましょう・・・(^o^;)ゴメンナサイ
さて、今度は散策路(緑ライン)と横堀(青矢印)の間に横たわる南郭の上によじ登ってみると・・・
細長く続く尾根の上に、いくつかの小さな堀切?で区切られた削平地が続いています。
削平地の幅はそれほど広くなくて、次の写真の場所あたりなどでは2~2.5mくらいしかありません。
この削平地にそれほど多くの兵を置くことはできなさそうです。
高さは結構あって、すぐ下の散策路を歩いている人が小さく見えます☆
横堀からの高さも同じくらいかな。。。
これはもう「郭」というよりは、むしろ横堀とともに城の北側、尾根に囲まれた入り江の「船溜り」方面を守るための「防壁」といってもよさそうな感じ。
「伝・天守台」の方は、散策路から階段が設けられていて、容易に登っていけるようになってます。
ここまででばあちゃんがすっかり疲れてしまったので、「伝・天守台」からほど近い東屋に一人残して、自分はさくさくと登っていきますと・・・(^^;)
「伝・天守台」の上は思ったよりも広い削平地になっていました!
公園らしくベンチなんかも置いてあったりして(笑)
眼下には現在の下田港が一望のもとに見渡せます。
そして奥に向かって、土橋のように細長く郭が続いています。
細長い郭はゆるーくカーブを描いているので、振り返ると「伝・天守台」から馬場ヶ崎の展望台方面に伸びる郭を見ることができます。
この細長い郭と馬場ヶ崎に伸びる郭の間に抱きかかえられるような形で挟まっているのが、この城の屋敷地であったのではないかといわれる開国広場。
やはりこの細長い郭は、屋敷地の北側の防塁として位置するような気がします。
それも船溜りや屋敷地とそれらを防塁で囲んでいる様が、「水軍の要塞」風な感じ。
(実は、その船溜りだったあたりには、現在でもフェリー乗り場と海上保安庁の下田海上保安部があるという・・・)
そして・・・この「天守台」を中心に細長い郭をめぐらして城の外側に対する大規模な防塁としているような縄張りって、大天守ともよばれている「詰めの城」を中心に細長い郭が続いている八王子城に似ていると思うのは、ワタシだけでしょうか・・・(^^;)
「伝・天守台」を降りてくると、散策路の傍らに「鵜島城址」の碑。
現在の下田公園(下田城)は下田港の湾口の岬となっていますが、もともとは鵜島という島だったんですね。
本当はこの後に馬場ヶ崎の方まで行きたかったんですが、ばあちゃんが待ちくたびれてしまってたので、残念ながら散策は断念(涙)
おとなしく散策路を通って車にもどりました。
今回は下田城の中でも「伝・天守台」を中心に南側(外海側)の郭と横堀をさくっと見ましたが、実は北側の尾根にもさりげなく横堀があって、あまり整備されてないのでわかりにくいですが、散策路から薮を透かして見ることができます。
次回来るときには、そちらも含めて北側の尾根や船溜まりもじっくり散策したいです~!
それにしても、ちょこっと寄るだけのつもりだったのが、思ったよりも見応えのあるお城でした。勉強不足でスミマセン☆
(おまけ)下田の御城下で遭遇した、背中に北条三つ鱗紋をもつ猫さま(ちょっと三菱の方が近いかな笑)
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