2016年1月10日日曜日

所沢の鎌倉街道上道

例によって、まったく別の用事で車を転がしているときに、「お、そうだ。この辺に鎌倉街道(古道)が通っていたっけ。」などと思い出してしまうワタシ。

本当はちゃんと計画的に行程を組んで、順番に歩き継いで行くとかしてきちんと踏査したいキモチはあるんですけど・・・どうもついつい先延ばしにしているうちに、虫食い状態に車で通ってしまうという(^o^;)

で、この日も妹の家から自宅に帰ろうと、東京は東村山あたりを府中街道と旧所沢街道の交差点方面に向って車を転がしていて・・・そういえば?

鎌倉街道上道の場合、久米川合戦のあった東村山から南は武蔵国府が置かれ、武蔵一之宮である大国魂神社のある府中までを結ぶ府中街道に沿って、伝承や遺構が残っているので、比較的古道がたどりやすいです。

また、所沢から北は、狭山のあたりを抜けて埼玉県道所沢狭山線と重なる「本道」や堀兼道のような支道など、やはり古戦場や城跡、遺跡や遺構などがあって、たどりやすくなっています。

ところが、自分の中では東村山~所沢市内のあたりがすっぽり抜けていて、どこを通っているのかわからない・・・?

で、いつもだったら超混雑地域である所沢市内は迂回して避けるのですが、ちょうどすっぽり抜けた部分の近くを走っていることに気がついた!ので、「急に思い立って」(笑)これまた古くからの道である旧所沢街道から所沢市内に寄り道することにしました。




古道を探すときに頼りにするのが、古くからある寺社や路傍の石仏・石標。
さっとwebで古いと思われる街道に沿って点在する地元の寺社を調べてみて、目星をつけます。

まずは、旧所沢街道沿いに日月神社という一風変わった名前の神社を見つけたので、行ってみました。しかしなbら、これは残念ながら地元の村の鎮守ということで、新編武蔵風土記稿にも載っている古社ではあるものの、目指す鎌倉街道上道に関連するものではありませんでした・・・☆

で、次に所沢市内をweb検索して眼に留まったのが、野老山實蔵院。むむ、これは・・・?





ビンゴ~!
この實蔵院の前を通る、一方通行の狭~い道が鎌倉街道上道でございました(^^)/




この實蔵院、江戸時代の大火で縁起が定かではないそうなのですが、貞治4年(1365年)、応永11年(1424年)、享徳3年(1454年)の板碑が発見されて保存されているそうなので、室町期からの古刹であることは間違いなさそうです。

さらに、戦前にこのお寺から供出した半鐘には、正平7年(1352年)に新田義興(新田義貞の次男)によって開基されたとの銘があったそうです。

お寺の前を通るこの道が、まっすぐ南の久米川古戦場に向っています。



新田義貞が元弘3年(1333年)に鎌倉幕府と戦った際にも、小手指ヶ原古戦場址はここよりもっと西を通る支道上にありますが、分倍河原の合戦の際には久米川の方に退却していますから、もしかしたら当時も頻繁に、この道が使われていたのかもしれませんね。わくわく♪

で、次の地図の中に赤線で引いてあるのが、今回見つけた鎌倉街道上道です。
ちなみにあとで調べたら、實蔵院のちょっと上にある新光寺にも源頼朝や新田義貞にまつわる伝承が残っているようです☆



そして、細くて狭い鎌倉街道は新光寺の北あたりで県道所沢狭山線にぶつかります。
そして坂をあがったところが鎌倉街道の宿(河原宿)の北側にあたる峰の坂交差点。

峰の坂から狭山市の西武線狭山市駅前までのこの県道が、そのまま往時の鎌倉街道上道の道筋と考えられています。

この付近一帯はかつて「入間野」と呼ばれた武蔵野の原野で、「吾妻鏡」建久4年(1193年)に源頼朝が武蔵国入間野において鳥追狩を催した場所がこのあたりだと伝えられているそうです。




ここからまっすぐ県道を北上すると、やがて鎌倉公方足利基氏が感応の擾乱後に上杉氏勢力に対抗するために9年間にわたって入間川御所を置いた、入間川の八丁の渡しに出るのですが、その途中に、すり鉢形の古代の井戸で、武蔵野の歌枕としても名高い「ほりかねの井」のひとつといわれる「七曲井」があります。



狭山市の公式ウェブによると、「ほりかねの井」は平安時代の女流歌人である伊勢に詠まれていたり、清少納言の「枕草子」にも「井は堀兼の井」と取り上げられていることから、七曲井は平安時代にはすでに存在していたとみられているようです。

また、「延喜式」によれば街道の駅路に旅人のための休息の場を設けたり、飲み水のないところには井戸を掘るように記載されているということで、七曲井の脇を通る鎌倉街道上道が古代入間路であったところからも、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて、武蔵国府の手により掘られたと考えられているようです。



このまままっすぐ北上すると、入間川に出ます。
この入間川の地は、鎌倉時代、入間川宿として交通上だけでなく軍事的にも重要な宿場でした。

なので、先ほどの室町時代の入間川御所関連だけではなく、元弘3年(1333年)の鎌倉幕府倒壊のときに、新田義貞が入間川に陣を張ったこともあり、戦勝祈願をしたという八幡神社や、入間川合戦時に宿泊所としたという徳林寺など、ゆかりの場所があります。

また、それだけでなく鎌倉初期においても同様であったようで、木曽義仲の息子で当時12歳の清水冠者義高の終焉の地といわれる清水八幡神社や、そのときに追っての目をのがれるために陰に隠れたという影隠し地蔵などがあるのですが・・・

本日は、時間もないので残念ながらこれにて鎌倉街道上道を離脱です。

次はいつ急に「思い立つ」のかな(笑)

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