先日の後閑城&箕輪城の群馬城攻めツアーのとき、あとになってミョーに腕がかゆいんですよね。
それも当日じゃなくて、次の日。
え?と思って腕をよく見てみたら、両腕で20ヶ所くらい虫にくわれてる!
それもヤブ蚊ならまだしも、どうもしっかりブヨにくわれてしまったらしく、くわれた場所のひとつひとつが大げさに腫れ上がって熱をもってる・・・ (T_T)
たしかにその日後閑城で整備されていない堀をさがして道をはずれて林の中に入ったり、箕輪城でも堀底に降りたり土橋をみたりするためにがさがさ藪をかきわけたりしましたが・・・
でも、虫が出ることは承知の上で、食われないように長袖長ズボン、首にはタオルを巻き手袋もしっかりはめて、極力素肌を露出しないようにした上で、思いっきり虫除けスプレーをふって万全を期したにもかかわらず、しっかりやられてしまった~☆
服の袖の上からでもぼこぼこにやられるんだから、本当に侮れません!
でも、今年は山ヒルの被害も多発してる(現に城ガール隊でも被害にあってる人がいます)ので、ブヨくらいですんで、良しとするべきか・・・(^^;)
で、2~3日ムヒやキンカンの臭いをぷんぷんさせながらかゆみに耐えていたんだから、それで少しは懲りればいいものを・・・
そのかゆみの癒えた数日後、武蔵松山城に行ったんです。
それも、城攻めとは別件で武蔵松山城のそばを通りかかって、ふと、後日の城址案内の参考に武蔵松山城のヤブの様子を確認しておこうと思って、あまり防備をしてなかったんですね。。。
でもある程度勝手知ったる城跡のこと。
規模も大きくないし、本丸と二の丸の間の堀切りの藪の様子を見ただけで、藪には極力入らないようにして駆け抜けてしまったので大丈夫だと思ったんですが・・・
次の日、左目が開かない!
鏡を見るとぶっくり腫れて「お岩さん」になってるし!
どうも、陽の差さない堀切りの谷間を抜けたときに、足元がつるつるして時間がかかってしまったのと、手がふさがってしまって虫を払うことができなかったので、どうやらその時にやられてしまったらしいです。。。
それでもちゃんと虫除けをふっておけば、かなり防げたはずです。
平山城だし、ちょっとくらい大丈夫だろう、なんて思っちゃいけなかったですね☆
そういえば、箕輪城の二の丸でのこと・・・
ひと休みした東屋には「100名城スタンプ」が置いてありました。
その東屋で私たちが地元のおじさんと縄張り図を見ながら四方山話をしていると、そこへ車で乗り付けてやってきた男女2人組。
みると、女子の方はノースリーブ、ミニスカ生足にミュールサンダル。
このお城は整備されてるとはいっても、堀とか草の生えたでこぼこ道がほとんどで藪も結構あるし、少なくともそのようなところを歩くスタイルじゃないな・・・(^^;)
ちょっと街中散歩ですか? こんなところにそんな格好でいたら蚊やブヨにくわれちゃうよー?
などと考えながら見ていたら、持ってきたスタンプ帳にスタンプをぽん!と押してもらうと、一緒にいたいかにも「オレはついてきただけオーラ」出しまくりの彼氏ともどもさっさと車に乗り込んで去っていった・・・
え、え、え、えー!?
肝心のお城をまったく見ないで、100名城スタンプを集めるだけのヒトー?
まぁ、それなら確かに素肌かなり露出でも虫に食われることもなくていいんですけど、せっかくその場所に来たのにもったいないな~、と思うのは私だけかな・・・?
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「お城初心者」城ガール隊なっちの歴史&城めぐり備忘録です。 天守閣や石垣で有名なお城だけでなく、関東の土の「お城」やそれらをつなぐ「古道」、「古戦場」などにはまって、ときどき「城攻め」や「古道あるき」に行っては、このblogやTwitterでぶつぶつとつぶやいております。 当blogへのご意見ご感想がありましたら、ぜひTwitterにて@natchdesにお寄せください。
2012年9月20日木曜日
2012年9月12日水曜日
石垣&土橋萌え? ~箕輪城その2~
さて、この夏は結構猛暑がきつかったんですが、この日もご他聞にもれず暑かったもんで、いかに山の木陰を歩いていたといっても結構水分不足気味。
とりあえず二の丸で小休止して水分補給いたしましょう・・・
ということでやってきた二の丸。
ここには東屋があって、城跡の整備をしているらしい作業員さんたちや地元の方とみられる方々が談笑していました。
聞くと地元の方だそうで、毎日のように二の丸にやってきているので、なんとなくボランティアみたいに案内もしているのだそうです。
その地元のおじさんが四方山話の中で聞くともなく教えてくれたのが、「三の丸の下で高さ3~4mくらいの石垣が発掘されたんだよ」という話。
さすがのサイガ先生もよくはご存じなかったようなので、さっそく行ってみることに。。。
二の丸から奥の木立へ入っていくと、縄張り図には名称が載っていないんですが、そこが三の丸。
道なりに腰曲輪らしき場所を通りながらいくつかの段差を下がっていくと、その段差のところに横に長く伸びていく石積みが・・・
東屋であったおじさんが言ってたのは、これかぁ~!
でもぱっと見、高させいぜい2mくらい?
おじさんの話や石垣そばの表示を総合するに、残り1~2mはどうやら地中に埋め戻したらしいです。
そう思って石垣下の地面を見ると・・・青いビニールシートが埋まったりしてるし(笑)
また石垣にもどって・・・石垣をよく見ると使われている石の大きさが極端に違っています。
サイガ先生によると、この大きい石は「鏡石」ではないかということです。
このような「鏡石」と呼ぶ大きな石は多くの城に存在するようで、大きな石を見せつけて来る人に威圧感を与えるために、藩主の住む御殿への通路に置かれ権力の象徴とされたようです。
確かに、今回は行かなかったのですが、この石垣の道をそのまま下っていくと、鍛冶廓を抜けて白川河原に面した白川口埋門に出るようです。
だとすると、ここが正面玄関?で、三の丸→二の丸→本丸、とルートが一本つながっていくのは自然な気がします。
一方で、そうなると蔵屋敷や通仲廓がルートからはずれたどん詰まりになってしまって、よくわからない構造に受けとれてしまいます・・・
しかしながら、前回「その1」でご紹介した「橋の跡」の場所に橋がかかっていたならば、この石垣から三の丸→蔵屋敷→通仲廓→御前曲輪→本丸、というルートもありだなぁ・・・と妙に納得したりして(^^;)
時間も遅くなってきたので、この石垣から引き返してまた二の丸へ。
実は二の丸に沿って「大堀切」が掘られているんですが、これがまた、めちゃくちゃ大きくて、しかも二の丸方向から三の丸脇や石垣の道の脇をとおって白川口埋門方向に彫り下がっていっている!
その「大堀切」、これまた先ほどのおじさんによれば、今は埋まってしまってよくわからなくなっているけれども、下に向かって段状になっているらしいとのこと。
上からのぞいてみただけではわからなかったのですが、縄張り図でも段状に高低差があるように描かれているので、実際に堀切の底に下りて踏査したら、段が確認できるのかもしれません。
もしくは堀障子の可能性も・・・? ワクワク☆
二の丸から今度は南方向に向かうと・・・大堀切を横切って渡る立派な土橋!
土橋を渡ると廓馬出とよばれる曲輪。
二の丸に付随しているような角馬出といったスタイルですが、馬出にしては結構広いスペースで、大堀切を駆け上ってくる敵がいれば二の丸・三の丸とともに挟撃できるようなポジションにあります。
また、この曲輪から見て二の丸と反対側の「木俣」という曲輪方面から敵が攻めてきても、堀を挟んで防衛線を敷ける場所と思われます。
なんたって、この土橋がすごくしっかり遺構が残っていて、思わず一同目にしたとたんに口をそろえて、「かっこいい~!」
それぞれ何度も土橋の上を行ったりきたりして、妄想を膨らましていたのでした(・・・って、それは私だけかも?)
写真は廓馬出から二の丸方面に土橋を渡っていくサイガ先生に「土橋!」ポーズをとってもらったところ(笑)
みどころ満載の箕輪城。主要部だけでしたが、半日かけてゆっくりじっくり、楽しく堪能できました。
で、二の丸から車を停めてある搦手方面にみんなで歩いていたところ・・・
後ろから例の二の丸東屋であったおじさんが追いかけてきました。
実は二の丸東屋で休憩していたときに縄張り図を見ながら搦手口の空堀の話をしていたのですが、わざわざその場所を教えに来てくれたんです。
で、ついでに御前曲輪の井戸の秘密・・・なぜ深さが20mなのか?についても持論を教えてくれたんです。
それは・・・御前曲輪と搦手口外の標高差が20m、この城外のあたりは榛名山の伏流水が豊富に湧き出ていた場所らしい、ということ。
なので、外堀や城外は水が防御になっていた可能性もあるらしい・・・
ちょこっと聞いただけで裏づけ等調べてはいないのですが、地元の方ならではの情報だな~という感じでした。うん。
それにしてもあの廓馬出の土橋、萌えたなぁ~♪
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とりあえず二の丸で小休止して水分補給いたしましょう・・・
ということでやってきた二の丸。
ここには東屋があって、城跡の整備をしているらしい作業員さんたちや地元の方とみられる方々が談笑していました。
聞くと地元の方だそうで、毎日のように二の丸にやってきているので、なんとなくボランティアみたいに案内もしているのだそうです。
その地元のおじさんが四方山話の中で聞くともなく教えてくれたのが、「三の丸の下で高さ3~4mくらいの石垣が発掘されたんだよ」という話。
さすがのサイガ先生もよくはご存じなかったようなので、さっそく行ってみることに。。。
二の丸から奥の木立へ入っていくと、縄張り図には名称が載っていないんですが、そこが三の丸。
道なりに腰曲輪らしき場所を通りながらいくつかの段差を下がっていくと、その段差のところに横に長く伸びていく石積みが・・・
東屋であったおじさんが言ってたのは、これかぁ~!
でもぱっと見、高させいぜい2mくらい?
おじさんの話や石垣そばの表示を総合するに、残り1~2mはどうやら地中に埋め戻したらしいです。
そう思って石垣下の地面を見ると・・・青いビニールシートが埋まったりしてるし(笑)
また石垣にもどって・・・石垣をよく見ると使われている石の大きさが極端に違っています。
サイガ先生によると、この大きい石は「鏡石」ではないかということです。
このような「鏡石」と呼ぶ大きな石は多くの城に存在するようで、大きな石を見せつけて来る人に威圧感を与えるために、藩主の住む御殿への通路に置かれ権力の象徴とされたようです。
確かに、今回は行かなかったのですが、この石垣の道をそのまま下っていくと、鍛冶廓を抜けて白川河原に面した白川口埋門に出るようです。
だとすると、ここが正面玄関?で、三の丸→二の丸→本丸、とルートが一本つながっていくのは自然な気がします。
一方で、そうなると蔵屋敷や通仲廓がルートからはずれたどん詰まりになってしまって、よくわからない構造に受けとれてしまいます・・・
しかしながら、前回「その1」でご紹介した「橋の跡」の場所に橋がかかっていたならば、この石垣から三の丸→蔵屋敷→通仲廓→御前曲輪→本丸、というルートもありだなぁ・・・と妙に納得したりして(^^;)
時間も遅くなってきたので、この石垣から引き返してまた二の丸へ。
実は二の丸に沿って「大堀切」が掘られているんですが、これがまた、めちゃくちゃ大きくて、しかも二の丸方向から三の丸脇や石垣の道の脇をとおって白川口埋門方向に彫り下がっていっている!
その「大堀切」、これまた先ほどのおじさんによれば、今は埋まってしまってよくわからなくなっているけれども、下に向かって段状になっているらしいとのこと。
上からのぞいてみただけではわからなかったのですが、縄張り図でも段状に高低差があるように描かれているので、実際に堀切の底に下りて踏査したら、段が確認できるのかもしれません。
もしくは堀障子の可能性も・・・? ワクワク☆
二の丸から今度は南方向に向かうと・・・大堀切を横切って渡る立派な土橋!
土橋を渡ると廓馬出とよばれる曲輪。
二の丸に付随しているような角馬出といったスタイルですが、馬出にしては結構広いスペースで、大堀切を駆け上ってくる敵がいれば二の丸・三の丸とともに挟撃できるようなポジションにあります。
また、この曲輪から見て二の丸と反対側の「木俣」という曲輪方面から敵が攻めてきても、堀を挟んで防衛線を敷ける場所と思われます。
なんたって、この土橋がすごくしっかり遺構が残っていて、思わず一同目にしたとたんに口をそろえて、「かっこいい~!」
それぞれ何度も土橋の上を行ったりきたりして、妄想を膨らましていたのでした(・・・って、それは私だけかも?)
写真は廓馬出から二の丸方面に土橋を渡っていくサイガ先生に「土橋!」ポーズをとってもらったところ(笑)
みどころ満載の箕輪城。主要部だけでしたが、半日かけてゆっくりじっくり、楽しく堪能できました。
で、二の丸から車を停めてある搦手方面にみんなで歩いていたところ・・・
後ろから例の二の丸東屋であったおじさんが追いかけてきました。
実は二の丸東屋で休憩していたときに縄張り図を見ながら搦手口の空堀の話をしていたのですが、わざわざその場所を教えに来てくれたんです。
で、ついでに御前曲輪の井戸の秘密・・・なぜ深さが20mなのか?についても持論を教えてくれたんです。
それは・・・御前曲輪と搦手口外の標高差が20m、この城外のあたりは榛名山の伏流水が豊富に湧き出ていた場所らしい、ということ。
なので、外堀や城外は水が防御になっていた可能性もあるらしい・・・
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2012年9月8日土曜日
箕輪城は、みどころいっぱい・・・~箕輪城その1~
群馬の城攻め、前回後閑城攻めをUPしてからずいぶん時間が経っちゃいましたが・・・(^◇^;)
さて、午前中に後閑城を攻めお昼にタルタルカツ丼で鋭気を養ったあとは、いよいよメインイベントの箕輪城攻めなのだ☆
箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にある平山城。
明応・永正の頃、長野業尚により築城され、長野氏は武田信玄・北条氏康・上杉謙信が勢力を争ったこの上野の地で、最後まで関東管領山内上杉の再興を図って奮闘し、少なくとも3回(弘治元年(1558年)、永禄元年(1558年)、永禄4年(1561年))、にわたって武田氏を撃退した城なのだということです。
結局、永禄9年(1566年)に武田氏によって落城、その後織田信長家臣の滝川一益、北条氏邦と城主が変遷し、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、江戸に入国した徳川家康の重臣井伊直政が12万石で入りました。
以後、慶長3年(1598年)に高崎に移転して廃城となるまで、江戸の西北の要として城下町も整備され、城も大改修が行われたということです。
この写真は箕輪城の縄張り図。
アタマにざっと叩き込んで・・・さあ出発!
今回は、本丸からほど近い搦手側の駐車場に車を止めて城攻めです。
縄張り図にある現在の大手は井伊氏の時代に付け替えられたもので、長野氏時代にはこの搦手側が大手だったそうです。
100名城ということで地元も観光に力を入れているのか、あちこちに「箕輪城」のぼり旗が立てられています ・・・が、どれも裏側を向いているところがミソ(^^;)
くねくねと道を登っていき、二の丸を横目に見ながら本丸へ。
本丸に入る手前右側には、角馬出とみられる不思議な曲輪様の空間が・・・
本丸跡の土塁などをぐるっと見たあとその奥の御前曲輪へ。
御前曲輪は長野氏時代にこの城の精神的中枢であったということで、落城の際も長野氏以下ここで自刃したのだとか・・・
堀の発掘調査結果から、かつては御前曲輪が本丸として機能していたのではないかと考えている方もいるようです。
だとすると、なんとなく落城時にここで自刃したのもちょっと納得。
右側の写真は本丸からの御前曲輪の入り口から奥を見たものです。
小さく東屋のように写っているのは井戸。この中から多くの五輪塔が発掘されたんだとか。深さは20mあるそうです。
この井戸の裏側は本丸と御前曲輪をとりまく大きな空堀に面しているのですが、ちょうどその井戸の裏側あたりに、対面する通仲曲輪につながる橋があったのではないかという遺構が発掘されたようです。,
確かに、この部分だけ土塁が切れて少しせり出しているように見えます。
反対に通仲曲輪の方は堀で分断されて孤立しているような印象もあるので、曲輪の使い勝手からいって曳き橋があっても当然のような気もします。
さて、ひととおり本丸と御前曲輪の土塁や櫓台跡などを見て回った後、いよいよ本丸と御前曲輪の間から大きな空堀に突入!
この写真は本丸と御前曲輪を区切る浅めの堀。
これだけでもずいぶん大きいなと思うのに、この先の急斜面をさくっと藪をかきわけながら降りていくと・・・
超デカイ!これ、堀底ですよー☆ うそでしょ・・・?
この直前に行った後閑城とはぜんぜん違う・・・
案内していただいた城郭研究家のサイガ先生(新津竜一さん)によると、この大きな堀はおそらく井伊氏の時代になって大普請を行った時に掘られたものなのではないかということです。
確かにサイガさんに指摘されたのですが、二の丸や通仲郭まわりの細めの堀と、大堀切や本丸周りの広ーい堀との間には彫りそこの深さに段差があるようです。
ということは、もともとあった堀をさらに掘り広げて今のような広い堀にしたのではないか、と。
そんな話をしながらつらつらと堀底を歩いていくと、ちょうど御前曲輪の西側あたりに来たところで古い石垣発見!
さっそく石垣に駆け寄り調査を始める、城ガール隊「石垣萌え」のあいすさん(笑)
この石垣の前でひょいっと上を見上げると・・・
あら?先ほどの御前曲輪の「橋の遺構」土塁が切れていたところの真下ですよ~!
石垣をしばし堪能した(笑)あと、そのまま今度は北側の丸馬出の方へ。
箕輪城は全体的に角馬出が多いんですが、ここは「丸」で様式が他と違います。
また、丸馬出とその前の独立した曲輪の間の堀は、本丸・御前曲輪まわりの大きな堀よりかなり浅くて、すっかり藪に覆われてしまっています。
そしてその藪をかき分けて堀を進んでいくと、曲輪から確かに丸馬出に向かって降りているように見える土橋のように見える遺構が・・・
やっぱ、どうみても土橋だ、土橋!
写真は、その土橋の上でうれしそうなサイガ先生。ブレブレですが・・・(笑)
サイガ先生によると、この丸馬出と曲輪のあたりが箕輪城の初期のころの形態をよく残していて、この城は度重なる普請によって南の方へ向かって開けていったのではないかということでした。
そして、今度は稲荷曲輪を左手に見ながら、大きな堀を南下。
稲荷曲輪から搦手方面に続く土手様の曲輪は、その外側に掘られた堀とも相まって、外から来る敵には結構突破しづらいのかな。
そしてやっとの思いで突破した~と思ったらこの大きな堀で足止めされて、本丸から攻撃されちゃうんだね・・・なんて妄想が膨らむ膨らむ!
膨らんだまま・・・元の二の丸から本丸に入るところの角馬出そばまでやってきて、やっと御前曲輪と本丸を一周ですが、まだまだ二の丸三の丸が残ってる・・・
ほんとに箕輪城はみどころいっぱい!そして通仲郭や蔵屋敷みたいに本丸や御前曲輪の位置との関係ではよくわからない曲輪もあって、謎も結構ありそう・・・
とりあえず、一周して二の丸のあずまやで水分をとりながらひと休み~☆
というわけで、この続きはまた次回(笑)
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さて、午前中に後閑城を攻めお昼にタルタルカツ丼で鋭気を養ったあとは、いよいよメインイベントの箕輪城攻めなのだ☆
箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にある平山城。
明応・永正の頃、長野業尚により築城され、長野氏は武田信玄・北条氏康・上杉謙信が勢力を争ったこの上野の地で、最後まで関東管領山内上杉の再興を図って奮闘し、少なくとも3回(弘治元年(1558年)、永禄元年(1558年)、永禄4年(1561年))、にわたって武田氏を撃退した城なのだということです。
結局、永禄9年(1566年)に武田氏によって落城、その後織田信長家臣の滝川一益、北条氏邦と城主が変遷し、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、江戸に入国した徳川家康の重臣井伊直政が12万石で入りました。
以後、慶長3年(1598年)に高崎に移転して廃城となるまで、江戸の西北の要として城下町も整備され、城も大改修が行われたということです。
この写真は箕輪城の縄張り図。
アタマにざっと叩き込んで・・・さあ出発!
今回は、本丸からほど近い搦手側の駐車場に車を止めて城攻めです。
縄張り図にある現在の大手は井伊氏の時代に付け替えられたもので、長野氏時代にはこの搦手側が大手だったそうです。
100名城ということで地元も観光に力を入れているのか、あちこちに「箕輪城」のぼり旗が立てられています ・・・が、どれも裏側を向いているところがミソ(^^;)
くねくねと道を登っていき、二の丸を横目に見ながら本丸へ。
本丸に入る手前右側には、角馬出とみられる不思議な曲輪様の空間が・・・
本丸跡の土塁などをぐるっと見たあとその奥の御前曲輪へ。
御前曲輪は長野氏時代にこの城の精神的中枢であったということで、落城の際も長野氏以下ここで自刃したのだとか・・・
堀の発掘調査結果から、かつては御前曲輪が本丸として機能していたのではないかと考えている方もいるようです。
だとすると、なんとなく落城時にここで自刃したのもちょっと納得。
右側の写真は本丸からの御前曲輪の入り口から奥を見たものです。
小さく東屋のように写っているのは井戸。この中から多くの五輪塔が発掘されたんだとか。深さは20mあるそうです。
この井戸の裏側は本丸と御前曲輪をとりまく大きな空堀に面しているのですが、ちょうどその井戸の裏側あたりに、対面する通仲曲輪につながる橋があったのではないかという遺構が発掘されたようです。,
確かに、この部分だけ土塁が切れて少しせり出しているように見えます。
反対に通仲曲輪の方は堀で分断されて孤立しているような印象もあるので、曲輪の使い勝手からいって曳き橋があっても当然のような気もします。
さて、ひととおり本丸と御前曲輪の土塁や櫓台跡などを見て回った後、いよいよ本丸と御前曲輪の間から大きな空堀に突入!
この写真は本丸と御前曲輪を区切る浅めの堀。
これだけでもずいぶん大きいなと思うのに、この先の急斜面をさくっと藪をかきわけながら降りていくと・・・
超デカイ!これ、堀底ですよー☆ うそでしょ・・・?
この直前に行った後閑城とはぜんぜん違う・・・
案内していただいた城郭研究家のサイガ先生(新津竜一さん)によると、この大きな堀はおそらく井伊氏の時代になって大普請を行った時に掘られたものなのではないかということです。
確かにサイガさんに指摘されたのですが、二の丸や通仲郭まわりの細めの堀と、大堀切や本丸周りの広ーい堀との間には彫りそこの深さに段差があるようです。
ということは、もともとあった堀をさらに掘り広げて今のような広い堀にしたのではないか、と。
そんな話をしながらつらつらと堀底を歩いていくと、ちょうど御前曲輪の西側あたりに来たところで古い石垣発見!
さっそく石垣に駆け寄り調査を始める、城ガール隊「石垣萌え」のあいすさん(笑)
この石垣の前でひょいっと上を見上げると・・・
あら?先ほどの御前曲輪の「橋の遺構」土塁が切れていたところの真下ですよ~!
・・・がそちらは藪が深くて今回はとりあえず踏査断念。
石垣をしばし堪能した(笑)あと、そのまま今度は北側の丸馬出の方へ。
箕輪城は全体的に角馬出が多いんですが、ここは「丸」で様式が他と違います。
また、丸馬出とその前の独立した曲輪の間の堀は、本丸・御前曲輪まわりの大きな堀よりかなり浅くて、すっかり藪に覆われてしまっています。
そしてその藪をかき分けて堀を進んでいくと、曲輪から確かに丸馬出に向かって降りているように見える土橋のように見える遺構が・・・
やっぱ、どうみても土橋だ、土橋!
写真は、その土橋の上でうれしそうなサイガ先生。ブレブレですが・・・(笑)
サイガ先生によると、この丸馬出と曲輪のあたりが箕輪城の初期のころの形態をよく残していて、この城は度重なる普請によって南の方へ向かって開けていったのではないかということでした。
そして、今度は稲荷曲輪を左手に見ながら、大きな堀を南下。
稲荷曲輪から搦手方面に続く土手様の曲輪は、その外側に掘られた堀とも相まって、外から来る敵には結構突破しづらいのかな。
そしてやっとの思いで突破した~と思ったらこの大きな堀で足止めされて、本丸から攻撃されちゃうんだね・・・なんて妄想が膨らむ膨らむ!
膨らんだまま・・・元の二の丸から本丸に入るところの角馬出そばまでやってきて、やっと御前曲輪と本丸を一周ですが、まだまだ二の丸三の丸が残ってる・・・
ほんとに箕輪城はみどころいっぱい!そして通仲郭や蔵屋敷みたいに本丸や御前曲輪の位置との関係ではよくわからない曲輪もあって、謎も結構ありそう・・・
とりあえず、一周して二の丸のあずまやで水分をとりながらひと休み~☆
というわけで、この続きはまた次回(笑)
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