9月始めに箱根の平安鎌倉古道で掘割道の遺構にきゃほ~い!となりすぎ、コケて右膝のお皿と右足首を骨折、その余波で右の肋骨にもヒビ入って、ついに右半身ガチンコに固められて1ヵ月半静養を余儀なくされまして・・・
なんとかギブスがとれたので、すっかり筋肉が削げ落ちてよろよろする足のリハビリにいそしんでおりましたが、ここへ来てやっと杖なしでさくさく歩けるようになりました!
そこに所用で上田に行くことになりまして~♪リハビリも兼ねて上田城をぐるっとさくっと回ることに。(^^)v
ちょうど紅葉が綺麗になってきてたのですが・・カメラ持ってこなかった~!(><)
やっぱ、スマホだと上手く色が出ないですね ← スマホのせいにするw
藩主の居館は真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県立上田高校の敷地にあったそうで、門は寛政2年(1790年)の再建、土塀は江戸末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残しているのだとか。
上田高校の脇から上田市役所前の大手門通りに抜けて西に向かうと、正面に上田城が現れます。
大手門通りと上田城址公園内に入る二の丸橋とは鍵の手状にずれているのが、なんともお城らしくていい感じ♪
この橋を渡ったところにある石垣が、上田城二の丸にあったという3ヶ所の虎口のひとつめ、二の丸東虎口の跡です。
そして、この二の丸橋の欄干に書かれたヘンなマーク?は「2(つ)の丸+ハ+シ)なんだそうです・・・(^o^;)
二の丸橋の下を通るケヤキ並木遊歩道は二の丸堀の跡です。
ちょうど紅葉が見ごろで、お散歩するのにいい感じ!
真田丸人気で、朝も早くから観光客が結構来てる!
ドラマ館の営業が終了したら展示物は撤去されてしまうそうなんですが、上田市はVRを使った上田城の大画面上映や真田氏ゆかりの品の展示などを検討してるそうで、どうなるかそちらも楽しみですね~♪
ドラマ館のある二の丸から本丸に入る土橋の上は、東虎口の櫓門や武将隊の方々の写真を撮る人々でごった返してましたが、へそまがりなっちは人々とは全然違う方向にくるりと向いて・・・
土橋の上から南側を見る!
・・・と、空堀の向こうに堀をせき止めてるかのような石垣と排水溝のような穴。
これ、実は、NHKの「ブラタモリ」で上田がテーマだったときに取り上げられてた、隠れた見どころなんです!
ということは、もしかしたら水堀としての用途で作られたのかもしれないですね☆
さて、多くの方はこの土橋から中に入って真田神社にお参りするようなのですが、これまたへそまがりなっちは土橋を渡らずに、その手前から右に曲がります☆
おお!本丸堀越しに見える紅葉と2つの櫓が風情ありますなぁ~♪
そのまま本丸堀の外側に沿って歩いていくと・・・
対岸の土塁がぐいっと内側に凹んだようなカタチになってる!
これは、本丸土塁の隅欠(すみおとし)といって、本丸土塁の北東(丑寅)隅をわざと切り込んで「四角を欠けさせる」ことで「鬼門よけ」としているのだそうで、二の丸堀でも北東を鍵の手に折り曲げるなど、上田城の各所でみられる特徴だそうです。
隅欠から堀を離れて北側に向うと、突然ど~ん!と目の前に現れる石垣。
上田城二の丸にあったという3ヶ所の虎口の2つ目、北虎口の石垣です!
この北虎口には現在2本の石垣がありますが、そのうち北側の石垣の西端のみが築造当初のもので、他は平成になってからの復元整備したものだとか。
この虎口と石垣は正保4年(1647年)の上田城の古図にもしっかり描かれています(赤丸印)。
この赤丸印の土橋の両側は堀だったのですが、左(西)側の百間堀跡には現在すっぽりと陸上競技場が納まっています。
この陸上競技場全体が堀だったなんて!ひ、広い・・・☆
また、陸上競技場につながる通路に沿って、虎口からの土橋の側面に積まれた石垣がよく見えます。
これは二の丸堀の水抜きのための石樋の出口だそうで、元禄15年(1702年)の修復の際につくられたそうです。
まさに陸上競技場が堀だったことを示してますね~☆
北虎口の西側の招魂社の境内は、厳かな中にも紅葉が華やかに彩っていて、秋らしい風情です♪
・・・が、ついついお社の裏手に広がる土塁の方に気持が行ってしまう~(^o^;)
この土塁は北虎口からずっと続いているもので、この向こう側は百間堀(陸上競技場)。
そのまま西へ向うと、二の丸の3ヶ所の虎口の3つ目、西虎口の跡に着きます(赤丸印)。
古図でみると当時は石垣と土橋があったようですが、現在では全く残っていません。
土橋の代わりに小泉橋がかかっています。
橋の右(北)側は百間堀の続き。これまた野球場がすっぽりと納まっています。
橋の左(南)側は、尼が淵の方へと落ちていく二の丸堀の跡。
正面行き止まりのように見えるのが、古図にも描かれている二の丸堀のクランクで、右方向に曲がっています。
仙石氏時代上田城の古図によると、実は当時この土塁に煙硝蔵が設けられていたようです(赤丸印)。土塁の上に小さ~く見える人と比べても、この土塁の規模の大きさがわかりますね!
さて、堀は右手方向の小泉橋からこの土塁でクランクして、またすぐに左(南)側の尼が淵方向に曲がって、下っていきます。
この写真の道路が、曲がった先の二の丸堀の跡です。
そして、向こう側のグラウンドが、古図にあった小泉曲輪。ということは、百間堀ほどではないにしても相当な規模の堀だったんですね!
この西櫓と櫓に連なる石垣でがっちり守っているのが、本丸に2ヶ所あった虎口のひとつ、西虎口(赤丸印)。
この西虎口の石垣の天端(てんぱ)に2ヶ所の凹みがあって、何のための凹みかなぁ~と思っていたら、どうもこの場所にあった櫓門の下層最前列の冠木と最後列の敷桁を載せるための切り欠きなのだとか。。。
そういう目でよく見ると、切り欠きの真下にあるこの石はもしかして門の礎石?!
確かに、通路の反対側にも同様の石がありました・・・
西虎口から本丸土塁に上ります。古図によると、元はこの上に隅櫓があったものと思われ。
土塁の断面?がよく見えます。もとはもっと手前まで土塁があったのかも?
土塁上の隅櫓あとから見る西櫓。秋ですね~☆
本丸土塁上には、それぞれの角に隅櫓があったそうです。
今は跡形もありませんが・・・(^o^;)
そして、先ほど二の丸側から見た隅欠。本丸土塁からみると、ぐっとえぐれてる感じ。
隅欠にはその凹みの両側に隅櫓があったようです。
そのまま本丸土塁上を歩いていくと、やがて本丸東虎口に。
北櫓にかかる紅葉が綺麗じゃ~♪
東虎口にある南北2棟の櫓は、明治8年(1875年)に払い下げられて上田遊郭に移築されたのを、市民により結成された「上田城址保存会」により買い戻されて、昭和24年(1949年)に現在地に復元されたのだそうです。
Twitterでの某フォロワーさんに捧ぐ、櫓門内にあった「密かに人気のリアル系」乳金具(笑)
櫓門から本丸側を見ると、真正面に真田神社。せっかくなのでお参りして怪我した足の平癒をお祈りしまして・・・
しっかり御朱印も頂戴いたしました。ただし、25分待ち☆
別の城ともフォロワーさんによれば、2年前には神社の方も1人しかいらっしゃらなくて、御朱印をいただける雰囲気ではなかったとのこと。これも真田丸効果なんですかねぇ・・・
御朱印を待っている間に、神社の裏手から西櫓のそばまで登って、現在は駐車場になっている尼ヶ淵をぼぉ~っと眺めまして。
築城当時は、ここに千曲川の淵があって、淵とこの河岸段丘の高低差が天然の要害となっていたというのが実感されますですねぇ・・・
西櫓の脇から急な階段を下りて・・・
尼ヶ淵の方から西櫓を見上げると、またその高低差がひしひしと感じられます!
千曲川の流れを渡ってさらにこの高低差を登るなんて、ないわ~☆
本来石垣の隅に用いられるはずの算木積みが石垣の中に埋もれているということは、古い石垣が新しい石垣の中に取り込まれてしまったということで・・・
「ブラタモリ」では確か、もともとは船着場の階段と踊り場として作られたのではないかという説を紹介していましたね♪
しばらく進むと、今度は石垣の上に本丸東虎口の南櫓が見えてきます。
その右側(東側)にある石垣は、最初に二の丸橋から見えた空堀をふさいでいて排水溝のあった石垣です。
よく見ると、赤丸で囲ったあたりにまたもや算木積み・・・
赤線の下側と上側とでは石の色や形も違うように見えるので、もしかしたらここも元々の石垣が新しい石垣に取り込まれて今のカタチになったのかもしれませんね。
お疲れ様でした!お城も紅葉も堪能できて、リハビリにはもってこいのルートでしたね~(笑)
この調子でどんどん歩いて、早く山城歩きにも復帰したいな♪
ちなみに上田駅で「幸村戦べんとう」なる駅弁を購入したので、ご紹介。
長野のブランドとして売り出している「信州地鶏黄金シャモ」の醤油麹焼きとか「千曲川サーモン」の塩焼き、飯山産コシヒカリみゆき米のおにぎりなどが入っていて、なかなかに美味しかったです~☆
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