前記事「ちょっと寄り道、毛呂氏館跡」でも触れたように、大永4年(1524年)交通の要衝を押さえる毛呂氏が北条氏に服属したのをみた管領山内上杉憲政は扇谷上杉朝興とともに上州兵を率いて毛呂に進攻、毛呂要害に制裁的攻撃を加えました。
これが毛呂合戦と呼ばれる戦いで、この攻撃に対し北条氏綱は直ちに救援の兵を送り、小競り合いがあり、結局和議が成立したのですが、北武蔵が北条氏勢力下に組み込まれていくこととなる事件となりました。
この毛呂合戦の舞台となった「毛呂要害」がこの毛呂龍ヶ谷城であろうといわれています。
で、何が「いわく」かというと・・・
この神社、実は「鶴ヶ島ゴルフクラブのど真ん中」で、ゲートの中に入ってゴルフ場を突っ切っていかないとたどり着けないらしい!
小心者のワタシとしては、もうこれだけで怖気づいてしまってました。
が、毛呂氏館に行ったすぐ後くらいに、たまたまTwitterでこの龍ヶ谷城の話題になって、フォロワーさんでサイト「儀一の城館旅」管理人の儀一さんや、同じく「埋もれた古城」のウモさんがいろいろ教えてくれて後押しをしてくださったので、勇気を奮って登城することに・・・☆
で、まずは龍ヶ谷城の本郭があるという、ゴルフ場ど真ん中の雷電神社へ。
龍ヶ谷城へはこの雷電神社の参道(一応、町道!)をたどっていくのです。
・・・が、どう見てもこのまま車が通れるのかどうか定かではない細い道☆
このまま車で進んでいってにっちもさっちもいかなくなったら困るし、いっそ参道の前に駐車して歩いて登ろうか・・・と車を降りてうろうろしていたら、ちょうどいいところに参道前の民家からオジサンが出てきてくれました~♪
で、道を尋ねると、なんと行き方から駐車場の有無、ゲートの抜け方まで懇切丁寧に教えてくれたので、安心して参道に車で突入!
でも、ずーっと「対向車が来たらアウト!」な道で、ヒヤヒヤもの☆
そして、これが件の「ゲート」。その向こうはいよいよ「鶴ヶ島ゴルフクラブ」です。
何も知らずにこのゲートを見ると、ゴルフクラブの敷地内に入るのを拒否されてるみたいでとてもビビッてしまうのですが・・・
この道は歴とした町道なので大手を振って通行可能、ゲートは単にイノシシ除けなだけなので、鍵もかかってないし開けたらちゃんと閉めておけばOKとのこと。
ゲートの中に入るとやっぱり思いっきりゴルフ場なんですが、一応「町道」の案内板が雷電神社の方を指し示しながら、点々と立てられています。
でも、やっぱりゴルファーさんの視線が痛かったです・・・一度路上に停車してたゴルフカートを追い立てて脇に避けさせちゃいましたし(^^;)
で、最後にゴルフコースの脇に現れた小山にぐいっと登ると・・・
そこが、毛呂龍ヶ谷城の遺構が残っているあたりになります。
(スミマセン、儀一さんの縄張図を掲載させていただきました・・・儀一さんのブログ「儀一の城館旅」もぜひご覧ください! ← PR)
車だと縄張図の左下から登っていきます。大きな三角形の郭に車が10台程度駐車可能。
右下の曲がりくねった道は徒歩専用の参道です。最後の階段を登りきると細長くてなだらかに傾斜した削平地になり、奥に鳥居が見えて、その上に社務所のある郭があります。
社務所はなかなか立派で、古びた神楽殿もあるのですが、どうも普段は無人のようです。
お祭とかがあると、麓から神主さんや氏子さんたちが登ってくるのでしょうか?
とりあえず社務所を横目に通り抜け、まずはいちばん高所にある神社にお参り。
この神社本殿のある場所が、毛呂龍ヶ谷城の主郭です。
本殿裏手には土塁も多少残っていて、その外側は切立ってかなり高さのある切岸。その先は・・・ゴルフコース(笑)
次の写真は主郭の東側に一段下がって造られている郭から、主郭を撮ったものです。
見ての通り、この主郭部分は実は結構狭くて、神社の建物だけでいっぱいいっぱいという感じ☆
一方で、この東側の郭はかなりの広さがあって、しかも超絶景!
むしろ、主郭は広めの櫓台的な機能であって、コチラのほうが主郭の機能をもっていたのでは?
というのも、実はこの絶景の中を、城から1kmのあたりに左(北)から右へ(南)へと、前記事「ちょっと寄り道、毛呂氏館跡」で触れた「鎌倉街道上道に平行して鉢形~毛呂~勝沼~八王子~当麻と結ぶ戦国時代の主要幹線」が通っているんです。
この街道はこの郭から、まさに丸見えです(笑)
大永4年の両上杉vs後北条の「毛呂要害」争奪戦の直前、4月10日に後北条氏から当麻宿に出された制札は「玉縄、小田原より武蔵国石戸(現在の北本市)、毛呂へ往復のもの、虎の印判を持たざる者、伝馬押立ていたすべからず」(当麻宿 関山文書)という内容で、この時点では小田原から当麻を通る街道については、毛呂にまで後北条氏の影響が及んでいたと思われます。
この街道上の毛呂以南には勝沼(青梅三田氏の本拠・勝沼城)・由井(八王子・浄福寺城)・椚田(八王子・椚田(初沢城))などの、政治的にも重要な拠点が存在しています。
そして毛呂要害争奪戦の20年前にあたる永正元年(1504年)12月に山内上杉顕定が扇谷上杉方の「椚田塁」を攻め落としている(本朝通鑑)とあるように、もともと両上杉氏の勢力下にあった地域なので、このルートは椚田方面への交通路として両上杉氏も使っていたものと思われます。
また、長享の乱で両上杉の力がそげていく間隙をぬって、南の小田原から北武蔵方面へと後北条氏が勢力を広げてきたルートでもあるわけです。
だから、この毛呂郷をしっかり押さえることは、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばすにあたって必要不可欠だったのでは、と想像むくむく。
そして、上州や鉢形からは小田原までの最短ルートでもあるわけで・・・
特に、当時鉢形城を拠点として上州を勢力範囲としていた山内上杉氏にとって、鉢形までほど近い毛呂までもこのルートを南から押さえられてしまうということは、目と鼻の先まで軍勢を動かすことが容易になるということで、のど元に刃を突きつけられたような危機感ではなかったでしょうか。
で、当麻宿に制札が出されたすぐ後、上杉憲房が上州勢を率いて「毛呂要害」に取り懸った旨、11月23日付けで北条氏綱から長尾為景にあてた書状に記述があります。(山形県米沢市教育委員会所蔵上杉文書)
ま、結局「取り懸か」った数日後には和議が成立したのではありますが・・・☆
主郭東側の郭から外側には小さな段郭が2つほどしかみられないのは、あるいは長く前線であったとか大規模な戦闘があったということではないからなのでしょうか。
たぶん竪堀だろうという窪みは見つけたのですが、うっかりブーツを履いていたので、そばまで行って確認することはできませんでしたが(^^;)
一方で、主郭の反対側、西南方向には山城らしい遺構が残っています。
社務所のある郭。建物の裏手にごそごそ入っていくと、若干下がった削平地が続いていて、そのいちばん奥(北側)に1本竪堀が。
その落ちている先は・・・ゴルフ場のカート道(笑)
社務所郭の一段下には、結構な高さの切岸の下に「この城でいちばん山城らしい遺構」な、横堀が残っています。
この横堀自体はそれほどの距離が残っているわけではないのですが、この横堀の下にある車を停めた郭から参道に向って登る道が、もしかしたらこの横堀の続きかもしれません。
後世に造られた道かもしれませんが(^^;)
ちなみに、この横堀の土塁から下の車のある郭を眺めたところ。かなり高さがあります。
そして、ぐるりとまわりはすべてゴルフ場・・・
実際の城域がどこまでで、どこが本来の登城ルートだったのか、お城初心者のワタシにはよくわかりません。
ゴルフ場造成のときにかなり手を加えられていることも考えられますし・・・
それでもやはり、地元で尊崇されている神社であったが故に本郭周辺だけでも遺構が残っていてくれたこと、整備がされていることに奇跡のようなものを感じますね~!
もうゴルフ場に造成されてしまったところは、地形からは以前どうだったのか判らなくなってしまってますが、残された遺構とともに地元での研究が進んで、毛呂氏やその城、毛呂合戦も含めた毛呂の歴史がもっと解明されるといいなぁと思いながら、またゴルフ場を突っ切って毛呂龍ヶ谷城を後にしました。
・・・このお城、次は初日の出登城もいいかも!