で、会津若松では雨にたたられながらも、2日間のんびりと町を楽しんだのですが・・・
なんたって会津若松といえば、やっぱりトピックスは鶴ヶ城!
というわけで、これは城ネタでもありますし、他の話題とは別に特出しでこちらの「お城備忘録」ブログに書くことにいたしました☆
※ちなみに、鶴ヶ城以外の状況はこちらをクリック!
→ 1日目「大内宿と塔のへつり」 ・ 2日目「涙ナミダの飯盛山」
・ 3日目「会津武家屋敷と日新館」
で、当日朝。
前夜宿泊した湯野上温泉を出発して、阿賀川沿いに国道118号線を走ってまっすぐ御城下へ。
鶴ヶ城は、幕末に戊辰戦争で激戦地となりました。
慶応4年(1868年)8月、会津若松に侵攻した新政府軍に対する会津藩主松平容保以下5000名は鶴ヶ城にひと月籠城し、城は1日に2500発もの弾丸を浴びたそうです。
開城後に、砲弾で傷ついた天守は破却され、その他の建物も全て解体されたため、現在の天守および走長屋は昭和40年(1965年)に、南走長屋と干飯櫓は平成13年(2001年)に、古写真を元に再建されたものです。
で、現在の鶴ヶ城の案内板。この図は普通の地図と違って左側に北が来ているので、車で来ると方向感覚が少々混乱するのですが・・・
地図の一番下に左右に走る国道118号線を右から左方向に「北上」してきて、現在駐車場となっている西出丸に直接入ろうとしたら、「一方通行出口」のため入れません!(><)
で、仕方なく通り過ぎて次の信号を右折(地図の上方向)すると、駐車場の案内が見えたので、それに従って城方向に曲がると・・・
何の心の準備もなく、いきなりお堀端を鍵の字に曲がって、立派な石垣の虎口から北出丸へ!
きゃー!すごいすごーい☆
と叫びながら、でも車は次の瞬間にはまたも虎口を通り抜けて外へ・・・
この間、写真撮れず(^^;)
で、そのまま車はお堀端からまたも立派な石垣の虎口を通って、今度はそのまま西出丸駐車場へ。
この写真は西出丸駐車場を取り囲む土塁の上から撮ったものです。
本当は、お城の大手は車で通り過ぎてきた北出丸からまっすぐ椿坂を上がっていくのですが、駐車場は西出丸だったので、車を降りてそのまま本丸に向って梅坂を登ると・・・
真正面にそびえる見事な石垣!本丸西の帯郭に続く枡形の虎口になっています。
そして左手の石垣上(櫓台?)には鐘楼が。
この鐘撞堂の鐘の音は、会津戦争の際の籠城戦で時守が撃たれても、別の者がこれを鳴らして正確な時を告げ続けて、開城の時まで止むことがなかったといわれています。
見事な石垣に、あっちでもこっちでもみんな写真やビデオを撮ってる(笑)
そのまま天守閣めざして歩いていくと、、帯郭から本丸に向って少し上がるようになっていて、そこが「蒲生時代の表門」です。
鶴ヶ城は、もとは黒川城といって、至徳元年(1384年)の築城以来、戦国期を通じて蘆名氏の居城でした。
天正18年(1590年)小田原北条氏攻めの奥州仕置きにより入封した蒲生氏郷により、文禄元年(1592年)より改修に着手され、望楼型7重の天守が竣工するとともに城の名も「鶴ヶ城」に改められています。
そして城主は上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明・明成と変遷。
寛永20年(1643年)に徳川3代将軍家光の庶弟である保科正之が入封し、以後、会津松平(保科)家の居城となって明治維新を迎えます。
嘉明の子の明成の時に西出丸・北出丸の増築や空堀から水堀への変更、会津地震により倒壊した天守を現在の層塔型5層天守に組み替えるなど城域全体におよぶ大改修が行われました。
ただし、天守の改修は加藤嘉明の時ですが、天守台の石垣は、石蔵入口の石積み方法から蒲生氏郷時代のものと推定されているそうです☆
天守の上からは、大手門の枡形や、渡り櫓に簡単に上り下りできるように工夫された「武者走り」のV字階段がばっちり見えます!
大手門の反対側には、天守から南に向って伸びる走長屋。
途中で鉄門の渡り櫓で折れて、さらに南走長屋が干飯櫓まで続いています。
反対に干飯櫓から鉄門越しに見た天守。平成23年(2011年)に、幕末に近い姿に葺き替えられた赤い瓦が美しい~♪
表面に鉄分を含んだ釉薬を塗って焼いた赤瓦は、水がしみこみにくく強度が高いため、会津の厳しい冬の寒さや凍結への耐久性が高いのだそうで、鶴ヶ城天守の瓦は、加藤時代には黒瓦であったものが、保科正之が藩主だった慶安元年(1648年)ごろに赤瓦に葺き替えられたのだとか。
干飯櫓からは堀沿いにずっと土塁の石垣上を歩くことができます。
石垣には所々に横矢掛かりの折れや櫓跡があって、なかなかゴキゲン♪
城下南方の物見櫓で、常に武器が納められていた「月見櫓」。
櫓にかかる月が一際美しかったことから、そのように呼ばれたそうな。
そして、茶室「燐閣」の上に位置し、主として貴重な茶器類が納められていた「茶壷櫓」。
「茶壷櫓」からは、二の丸から本丸に通じる朱塗りの「廊下橋」が真横から見えます。
蘆名時代には屋根のついた廊下造りだったので「廊下橋」と呼ばれたそうで、加藤明成の大改修までは、ここが大手口だったそうです。
そのため、橋自体も有事の際にはすぐに落とせるように木橋になっており、「茶壷櫓」が廊下橋の横矢掛かりとして側面からしっかり守りを固めていました。
また、堀側の石垣の高さは20mもあり、橋を落としてしまうと容易には本丸に近づけなかったものと思われます。
石垣上を廊下橋のすぐ上まで近づいてみると、橋の本丸側は高い石垣でがっちり固められた枡形虎口。
この石垣上から枡形虎口にすぐにでも降りていけそうに見えるのですが・・・
実は一度石垣から本丸側に降りないと、この廊下橋の虎口にたどり着くことはできません。(>o<)
しかたなく、くるりと石垣の内側を向くと、木々の向こうに天守閣と走長屋の赤瓦が綺麗だぁ~!
廊下橋の真上からの移動のはずなのに、虎口まで結構遠い!!
ちなみに、右側の石垣の上の柵のあたりから橋と虎口を見下ろしていたわけですね☆
飛び降りれそうにも見えますが・・・人と比較すると、実はめっちゃ高い石垣だということがわかります(^o^;)
橋を渡って二の丸側から虎口を見たところ。
攻めて行って、生きて帰れる気がしません(笑)
さて、廊下橋から再度帯郭に戻り、ほっかむりをした狛犬ならぬ狛狐のいる鶴ヶ城稲荷神社へ。
このお稲荷様の裏手から、太鼓門が見えます。
北出丸から本丸に通じる大手門のことで、この石垣の上に多聞櫓が建てられ大太鼓が置かれていたようです。
天守の上から見えていた「武者走り」。
鶴ヶ城では、石垣に登る向かい合わせに造った石段(合坂)のことをそう呼ぶようです。
ここでは太鼓門に容易に昇り降りができるように設置されているようですが、実際には石段の横幅がかなり狭くて、冬は雪が降ったり凍りついたりしたら滑り落ちそうで怖いです☆
そのまま北出丸から土橋を渡って外へ。
北出丸はぐるりと堀に囲まれて島のようになっていて、出入りは三方向の土橋のみです。
さくっと鶴ヶ城ひと回り。お疲れ様でした(^o^)ゞ
ちなみに、今回の鶴ヶ城での戦利品(?)
たまたま売店をのぞいたら、「鶴ヶ城の御朱印」があってびっくり!
他のお城では見たことがないのですが、歴代城主の家紋が押されていて、いい「登城記念」です♪
そして、平成17年(2005年)に開催された「若松城天守閣再建40周年記念企画展」の図録があったので、これもGET♪
蒲生氏郷、上杉景勝、松平容保の3人にスポットを当てたものだったようで、展示物もかなり充実していたようです。行きたかったなぁ・・・
・・・ということは、50周年はもしかして平成27年(2016年)?!