「natchdes の写真置き場~Photo box~」 http://natchdes2.blogspot.com/
(このブログ右側の「関連ブログ」にも、常にリンク張ってます) では、私が日頃携帯電話SH-06Aで撮りまくっている写真の中から、毎日1枚ずつUPしています。
で、ここ数日の写真置き場には、先日お正月の親戚巡りで行った埼玉北東部の3つの城跡(菖蒲城趾、騎西城趾、忍城趾)の写真をUPしてます。
これが菖蒲城趾の写真です。
菖蒲城というのは、埼玉県の北東部、久喜市菖蒲町というところにありました。
康正2年(1456年)に古河公方足利成氏が築城させたということです。
のちに、小田原城に籠もった忍城主成田氏長に属し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による関東侵攻(小田原の役)により廃城となりました。
今では田んぼの真ん中のちょっとした木立に石碑があるくらいの史跡となっています。
まわりはちょっとした「あやめ園」になっているようなんですが、私の行った真冬はそのまわりの田んぼと区別がつきません(笑)
私の行ったときには、冬の空っ風が田んぼの上を吹きまくっていて、寒くてあまり長くはいられませんでした。
あやめの咲く時期くらいがいいのでしょうね。菖蒲城ですし(笑)
次は騎西城趾です。
騎西城は、原発事故で福島県双葉町の人々が集団避難している、加須市騎西町にあります。
築城者や築城時期は定かではないのですが、1455年に古河公方足利成氏に攻略され、以後古河公方の前線基地となったようです。
永禄6年(1563年)上杉方の松山城(現・埼玉県東松山市)を北条氏康と武田信玄の連合軍が包囲した際に、上杉謙信は救援の兵を差し向けたのですが間に合わず、松山城は落城。
上杉謙信は逆上して、鬱憤晴らしに騎西城を攻め落とし、落城降伏させたとのことです。
とんだとばっちり・・・?(笑)
天正2年(1574年)の第三次関宿合戦でも、北条氏政に包囲された関宿城救出のため、上杉謙信が騎西城、菖蒲城などの城下を焼き討ちしています。
小田原の役後、城主は松平氏、大久保氏と続き、寛永9年(1632年)大久保氏の移封により廃城となりました。
今では、写真にあるような土塁がひとつ、ぽつんと残っているきりです。
そのせいなのか、道路を挟んだ向かい側に、町が作った鉄筋コンクリート造りの「模擬天守閣(資料館)」が建っています。
私は、天守閣を再現したのかと思っていたのですが、もともとは天守閣のない城だったようです。
だまされちゃうなぁ・・・
そして、3つの城跡の中では一番有名な忍城。
忍城は埼玉県行田市にありました。関東七名城の一つで「忍の浮城」という別名をもっています。
小田原の役の時に日本三大水攻めといわれる、豊臣方の石田三成による利根川を利用した総延長28kmの「石田堤」を建設しての水攻めにも耐え抜いたことが、別名の由来だということです。
「のぼうの城」という小説と映画の舞台でもあります。 → 読んだことないけど(汗)
江戸時代に入ってからは、徳川親藩である忍藩10万石がおかれ、明治時代には廃藩置県で「忍県」の県庁が二の丸に置かれましたが、その後廃城となりました。
行った日は曇っていて寒い日でしたが、菖蒲城、騎西城と違ってしっかり「城趾公園」として整備されているせいか、私と同じように写真を撮りまくっている来客も結構いました・・・
埼玉県のこれらの城があったあたりは豪族の成田氏が勢力を持っていたのですが、永享の乱から結城合戦、室町後期の古河公方と関東管領との争いなど通算50年にわたって争いが続き、また関東管領が頼っていった上杉謙信と後北条氏との勢力争いの最前線でもあったため、大小の城跡や館跡、古戦場が点在しています。
有名どころでは、川越城、松山城、腰越城、鉢形城といった後北条氏がらみの城でしょうか。
また、行ったらレポートしたいと思います。
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