2012年5月27日日曜日

そういえば丸墓山

何気なく近頃のブログを見返していて、そういえば、しばらく前に埼玉(さきたま)古墳群の丸墓山に立ち寄ったときのことを、こっちの「雑記帳」には書いていなかったことに気がつきました。

「写真置き場」ブログの方には写真を結構UPしたから、それですっかり書いたつもりでいました(^^;)

なので、しばらく前の話題で今更ですが、その時のことなどつらつらと。



5月の連休も過ぎたある日、いろいろな行き違いその他の都合で、愛車を使って自宅(飯能)から熊谷まで飛んで、それから事務所(大宮)に向かい、その後また熊谷にとんぼ返りしなければならない事態が発生しました。

で、ルートをみると自宅~熊谷へはR407を、熊谷から大宮へはR17を行くことになるのですが、
R407からほど近い東松山近郊吉見町には、上杉と北条の奪い合いの舞台となった松山城跡、同じくR407沿いの森林公園には松山城や忍城の出城といわれる山田城跡や山崎城跡があります。

そしてR17からほど近い行田近辺には、日本三大水攻めの1つで知られる忍城と埼玉(さきたま)古墳群が・・・
どうにか時間をやりくりして、どっちかに立ち寄れないかな~

・・・と、数日前から道路マップを見ながらつらつら考えていたところ、この日道路状況が割とよくて、東松山ではその先の余裕がどれくらいとれるか見当がつかなかったけれど、大宮には思っていたよりも順調に到着。

大宮でとんぼ返りに向けての作業をさくさくこなした結果、少しばかり余裕をもって職場出発できたので、30分くらいなら行田に寄れるかも・・・!



うーん、30分か・・・微妙だなぁ。

資料館に寄ったりじっくり見て歩くということはとうていできそうもないので、じゃ、ちょこっとだけ立ち寄れるところ、ということで、埼玉(さきたま)古墳群の、それも丸墓山に寄り道することにしました。



埼玉(さきたま)古墳群は、埼玉県行田市にある9基の大型古墳とその周りの小型古墳35基からなる古墳群で、その中の1基「稲荷山古墳」は、雄略天皇の実在を示す手がかりとなる金象眼の文字が刻まれていて後に国宝に指定された「金錯銘鉄剣」で有名です。


また、丸墓山古墳は日本最大規模の円墳で、直径105m、高さ18.9mあります。



これが、その丸墓山古墳。


現在は、周りをぐるりと桜並木の小径に囲まれた、いかにも閑静な単なる「小山」。

しかしながら、実はこの丸墓山の頂上は1590年(天正18年)秀吉の小田原征伐に際して、北条方成田氏の守る忍城攻略の命を受けた石田三成が陣を張った場所なのです。


古墳につけられた階段を登ると頂上は平らな広場になっていて、忍城の方向には案内板が据え付けられています。






三成は忍城を水攻めするために、この丸墓山を含む忍城を中心とした半円形の「石田堤」を総延長28kmほど作りました。

この携帯写真ではズームがきかないのでよくわからないのですが、肉眼では遙か彼方(たぶん2~3kmくらい離れているのではないでしょうか)に小さく忍城の御三階櫓を望むことができます。

・・・ということは、この丸墓山の頂上から忍城までの間に横たわる田園風景は、全部水の下になってしまったということか~?!

あまりに広大すぎて、半ば眉唾なんじゃないかと疑ってみたくなってしまいます(笑)

そして、その水攻めのために作ったという「石田堤」。




丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残だということです。



単なる「丸墓山の参道」にしか見えないこの道路は、左右の湿地(池?)からは、せいぜい1~2mほどの高さしかありません。

往時の高さがどれだけだったのか全く判りませんが、この「石田堤」ではたいして水を深くため込むことはできなかったんだろうなぁ・・・

というよりも、総延長28kmもの壮大な高さ規模の堤を短期間で作るなんてとうてい無理な話だし、平均水深1mもあれば城からの攻撃は足止めできる訳なので、水没させた広さは確かに広大だったけど、堤自体の高さはそんなもんだったのかもしれないな・・・なぞと考えてしまいました。


とにもかくにも、石田三成はこの丸墓山の頂上で、忍城の天守を望みながらどんなことをかんがえていたのかなぁ・・・なぞとぼぉーっ!と想像しながら、初夏の陽射しと緑の風を感じて贅沢なひとときを送っていたら、携帯に呼び出し電話がかかってきて、夢の中のひとときはあっという間におわってしまったのでした(T^T)

30分はあまりに短かった!今度は忍城もひっくるめて、ゆっくり「のぼうサマ」(忍城水攻めを題材にした小説「のぼうの城」)ツアーやるぞ!と心に決めて(?)もとのルートに戻ったのでした☆


「のぼうの城」は映画にもなりました。(11/2公開)見に行こうっと!

 
 
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2012年5月13日日曜日

山を侮ってはいけないですね・・・

それでもって(と、いきなり本題に入ってしまいますがwww)

本丸でしばらくうだうだしていたら、それまでぴかぴか天気だった空に不穏な黒雲。
なんとなく頬に冷たい風を感じるようにもなってきて・・・

あれ?なんかポツポツと雨が降り出した!

そういえば朝八王子に向かう途中に、twitterで中部の方では大雨だけど大丈夫?てフォロワーさんが心配してくれてたっけ。

あまりにお天気良かったから、それほど気にしてなかったんだけど(ゴメンナサイm(_ _)m・・・)

本丸から降りて神社の下の広場(「頂上」の石碑がある)まで降りると、そこにあまり綺麗ではないけれど広めの四阿(あずまや)。


そこでちょっと判断に迷いました。この時点で空はそこまで曇りきっておらず、雨はまだポツポツ程度。
私の足なら一気に降りれば麓まで10~15分くらいで行けるかもしれない。

周りを見ると、そこにはいくつかのご一行が来ていたんですが、みな迷っている様子。
と見ている間に、幼稚園から小学校低学年くらいのお子さんを連れた家族連れが2組、意を決したかのようにさっと山を下り始めました。

私は、他の中高年のご夫妻、同じく中高年の男性ばかりのご一行、どこかの大学の教授と女子大生数人のご一行らとともに四阿へ。

ひと休みして雨宿りをしながら少し様子見をした方がいいかもしれないと思って・・・



なんていってる間にゴロゴロ雷まで鳴り出した!
そして、あれよあれよという間に四阿の中まで吹き込むほどの土砂降りの雨!

ホント、こんな標高のそんなに高くない山でも、山の天気は変わりやすいので要注意。
さっきの親子連れ、どうしただろう?大丈夫かな・・・


ホント、山の天気は変わりやすいです。

天気は西から変わる、というのでそのまま天気が下って行っちゃうことを心配してたんですが、ほんの15分ほど雨宿りをしていたら、あっという間に黒雲は行き過ぎて、また雲のほとんどない、もとのぴかぴか天気。

ついさっきまでは、今日はこれであきらめて天候が回復したら山を下りようか、と思っていたのが、ここまでぴかぴかに回復するとかえって欲がでる。

パンフレットの地図を見ると、この奥の「詰の城」(天守閣跡)まで片道30分。ここまでの行程を考えると、私の足ならもう少々短縮か・・・

この時点で時刻は11時半なり。
せっかくここまで来たんだし~・・・



というわけで、かなりスピードをあげて詰城へ出発。
広場から松木曲輪の脇を西側にちょっと下がると、左側の写真の井戸に行き当たります。



これは坎井(かんせい)と呼ばれる井戸らしく、今はコンクリートで覆われているけれど、古びた手押しポンプもついていて、どうやら今でも使われているらしいです。

さらに人ひとり通るのがやっとの道をサクサク降りて行くと、少しばかり広くなったところに「駒冷場」の小さな石碑(真ん中の写真)。

おいおい、そもそもこんなところまで馬来れるのかい?
来れたとしても、まわりに水場は見当たらないからせいぜい、荷駄を下ろしながらひと休み程度?
何頭もいられる広さじゃないし・・・

で、そこからひょいっと見あげると、今度は大きな切り通し・・・
どうみてもこれは人工的な堀切だ!という感じです。


ここからは、この写真のとおりの急斜面。

写真では判りづらいですが、結構石がごろごろして歩きづらいのですが、この道を一気に登り切り・・・














登り切ったところが「詰の城」(天守閣跡)。

本丸跡よりもさらに狭いくらいの広さです。
しかし、周囲は非常に切り立った感じで、ちょうどピラミッドのてっぺんにいるような案配のピークになっているので、守るのに守りやすそうですし、これで周囲の木を切り払ったら相当見晴らしがききそうで、「天守閣」が置かれるにふさわしそうな場所とはいえそうです。

ただし、このスペースではとてもとても「天守閣」なんてものは作れなくて、あったとしても櫓くらいの規模のものがせいぜいなんじゃないでしょうか。

それでも以前には何かしら建っていたのか、いかにも人工的に使われていたっぽい石がごろごろ(それもストーンサークル状に?)転がっていたりします。




しかし、この場所で知った驚愕の事実。

こんなにも高台で電波の届きそうなところでありながら、ここでは携帯が「圏外」でした・・・!
だから私も知らなかった驚愕の事実がもう1つあったのですが・・・


この後は、空の雲の流れが速くなってきて不穏な空気が流れ始めたので、元来た道をまた走るように戻り、途中松木平で昼食をとってから一気に麓まで降りたのですが、駐車場から車を出して走り始めたとたんに、あちこちで落雷の稲妻。

そして・・・やっと携帯が圏内に戻ってきてニュースがチェックできるようになって初めて知ったのが、つくば方面でものすごい竜巻被害があったり、関東のあちこちで落雷や突風、大雨といった気象被害が生じていたということ。

え~!? そんなの微塵もなくいい天気に恵まれちゃって、よかった~!
でも、今回は「吉」と出たけど、山の天気は平地と違うし、変わりやすいし。

やっぱり山は侮ってはいけないのですね。
装備の備えと観天望気はしっかりやりましょう☆




「山を侮ってはいけない」おまけ。

一気に麓まで降りてきて管理棟の所まで来たとき、1台の救急車が赤色灯をくるくる回しながら止まっていて、ちょうどストレッチャーが中に運び込まれたところでした。

すぐ傍で管理棟のおじさん達が5~6人、中に何か入った大きな捕虫網を持って騒いでいたので「いったいなんですか?」と聞いてみると・・・


「マムシだよ!」

網の中にはマムシがとぐろをまいて捕獲されていました。

なんでも、管理棟のすぐ傍(ということは、ほぼ人里)で、家族連れで来ていた小学生くらいの子が素手で藪のそばにいたチョウチョを捕まえようとして、マムシに指を噛まれてしまったんだそうです。

山を多少知っている人なら、道からむやみに藪になんて出るようなことなしないんですが・・・
やっぱり山を侮ってはいけませんね・・・



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2012年5月10日木曜日

八王子城攻略・・・

さて、御主殿跡を中心に山麓の居館地区をうろうろしたので、今度はいよいよ「山城攻略」山上の要害地区に向けて出発です☆



パンフレットの地図を見ると、御主殿跡から要害地区に登って行くには一度川沿いの道を10分ほど下っていって、改めて山道を登ってくように書いてあります。

・・・でも、周りの地形や他の地図を見渡すと、その2本の道のV字形の間には曲輪群が造成されていて、それらを渡り歩きながらショートカットできそう・・・

というわけで、山の方に入り込んでいくことにしました。



とはいっても、似たような山に住んでいて一応はこの辺の山の怖さも(やっぱり後で思い知るのですが・・・)知っているので、藪こぎなんて無謀なマネは絶対しません。

ちゃんと車の轍のある道を見つけて、踏み込んでいきました。

すると・・・



現れたのは、ちょっと広めの曲輪跡。

どうも進入禁止の立て札があった私有地に入り込んでしまったらしく、それまでの綺麗に整備されていた状況とは一変して放置されていたときの状況に近いのか、整地された広場様の場所に砕けた瓦が散乱し、斜面を登る道の所々に古めの石段が埋もれています。

そして、このあたりでも激戦があったのか、所々に石仏が・・・
おそらくこの曲輪跡あたりが「アシダ曲輪」なのだと思います。

下調べもなくパンフレットに載っている「本道」から外れてるので、本当にちゃんとした「道」に出られるのか不安でしたが、とりあえずとったルートと方向に間違いはなかったらしく、しばらく曲輪跡と思われる広場をいくつか通り過ぎたあとに、人がよく通ると見られる広めの「登山道」らしき道にでました。



要害地区へ向かっていく正規の(?)登山ルートにどうやら出れたようです。

道はどこにでもあるようなハイキングコース風。
季節柄緑が鮮やかで、お天気も良く爽やかでゴキゲンな山道です。




それでも、いつも歩きに行く山々と若干違うな・・・と思うのは、登っていく先々に「段々畑」ではないけれど、斜面を横に回る細長い「広場」様のスペースが出てくること。

これが段曲輪とかいわれる曲輪跡なのかな?
その上には真ん中の写真にある金子丸が現れました。

パンフレットをみると、このあたりの「金子曲輪」には金子三郎右衛門家重が守備をしていたと書かれています。

八王子城の支配下にあったと思われる入間のあたりに「金子」という地名があるので(JR八高線に金子という駅もあります)、もしかしたらその辺あたりを地盤としている豪族だったかもしれないな~、なんて勝手に想像しながらさらに登っていくと・・・





さらに道は急になり狭くなり、いくら城主でもこんなところ戦でもなければ登ったことなんかないんじゃなかろうか、とか、そうはいっても整備や警備のために日々足軽たちはこの道を行き来していたんだろうから、昔の人達ってなんて足腰が丈夫だったんだろう・・・とか、あれこれ思いを巡らしながら登り続けると、そのうちに頂上と思われる小高いピークの周りを巡る平らな道になり、そして・・・

じゃ、じゃーん!



大パノラマ~!!

ちょうどこの写真を撮ったときは多少陰ってしまって、あまり鮮明には撮れなかったんですが、肉眼ではたぶん横浜の方まで見えていたと思います。




パノラマ地点からまたもう一段上がると開けた場所に出て、木の根元に「頂上」の石碑が。

やったー!ここが頂上ですか・・・でもその向こうにさらに上に登る石段があるのが笑える・・・(笑)

この石段を登ると、右の写真にある八王子神社の境内に出ます。

そして、この八王子神社の裏手をさらに登っていくと、いよいよ八王子城の本丸跡です。





本丸跡はそれほど広くありません。

ここまで登ってくる間の曲輪群を見ててもそうだったんですが、それほどの軍勢を配置したりすることってもともと無理だったんじゃないでしょうか。

ただ城全体は非常に広大なので、少人数ずつ分散すればかなりな人数は配置できるのかもしれませんが、1ヶ所に大勢居ることはできないな、と。

それに、ここまでおそらく大手道を通ってきたんじゃないかと思うんですが、大手道方面は比較的なだらかな尾根道も多く、距離も長いけれども、曲輪がたくさん配置されていて防備も固かったような気がするんですが、裏側(搦め手?)は天然の要害ということもあるんでしょうけど、それを越えてこられたらひとたまりもないなぁ・・・なんて思ってしまいました。

(あとで調べたら、落城の要因はやはり搦め手側からの攻撃だったようです・・・)





本丸跡から一度八王子神社に下って、右手方向に一段上がった見晴らしのいい場所が「松木曲輪」です。

ここには大きな石碑が2つと3~4つベンチやテーブルが置いてあり、パノラマの説明もあったりして、現在は見晴台となっているようですが、もとは私の地元・飯能の殿様でもあった中山勘解由家範が守備していた曲輪と伝えられています。

八王子城攻防戦の際には前田・上杉家の軍勢と奮戦したものの多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。

また、この時の奮戦ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が水戸徳川家の家老にとりたてられたと、地元でも伝わっています。


ここまでは一般のハイカーや城好きさんがよく訪れるルートだということです。
が、実はこの先、もっと山を奥に入ったところに「天守閣跡」(詰城あと)があるのだということ。

ここまで結構時間もかかっちゃってるし、どうしようかな・・・と思ったんですが。

せっかくここまで来たんだし、お天気もよいし・・・えーい行ってしまえ~!

というわけで、まだこの話は次回に続く(笑)



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2012年5月6日日曜日

八王子城趾をお散歩(?)

うーん、やっぱりまた放置しかけてしまった・・・(^^;)

GWなので、いつもより多少はじっくりブログ各余裕があるだろう・・・なんて悠長に構えていたら、書くことは毎日のように増えていくのに、どうもやっぱり筆が進まない~☆

ま、もともと自分のどーでもいいような日常を書き連ねる「日記」の意味合いなので、忘れない程度にのんびり書き連ねるとしようかぁ・・・


さて、雨ばかりの今年のGW、やっと昨日今日と晴れ間が出てきました。


例年はGWはもう少し五月晴れの日が多いので、昨年の日記(そうそう、昨年の今頃はまだこのブログやってなくて、mixiの日記だったんだ!)を読み返してみても、せっせと日頃できない「休暇をまったり過ごす」ことに勤しんでいたんですが。

今年は雨でなかなかそれができなかったので、せっかく晴れ間の出た連休の最終日くらいは近場でのんびりぶらぶらしよう…!


ということで、 八王子城趾をお散歩(?) 軽いウォーキングと日帰り温泉の近場ツアーを強行することに♪

いつものとおりリュックにワンバーナーと燃料、ヤカン、コップを詰め込み、途中のコンビニで水とおにぎり、カップラーメンを買い込んで、車を軽く飛ばして1時間。

八王子城趾は暑いくらいの陽射しと爽やかな初夏の風そよそよで、山の緑がめちゃくちゃ美味しそー!

 

八王子城は、高尾山の北側にある小田原北条氏(後北条氏)第3代氏康の3男氏照が築いた山城です。

相模から千葉、北関東までを版図とし、平山城を得意とする後北条氏が、武田勢への要衝として安土城を参考に築いた強大かつ堅固な山城でしたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に際し、その一環として上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。



このとき、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城には横地監物吉信、狩野主繕入道一庵、中山勘解由左衛門家範、近藤出羽守綱秀ら四千が籠城するも、半日で落城、城兵、女子供、千数百人が惨殺されたということです。


この写真の滝は「御主殿の滝」です。

八王子城落城の際、氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。


でも実際に目にした「御主殿の滝」は、「身投げ」という言い伝えから想像していたのとはちょっと違って、非常に小ぶりな感じで、流れもこのGWの大雨の後にしてはそれほど水も多くありませんでした。


まったく、そのような血なまぐさい言い伝えとは関係がないんじゃないかというくらいです。
 
周りの緑が清々しくてのどかな風景な上、今は「国史跡」ということで特に御主殿跡周辺は綺麗に修復・整備されているので、余計にそう思ったのかもしれませんが・・・



左は古道から御主殿に渡るためにかけられた曳橋です。

もちろんもとは橋台石垣の遺構がわずかに残っていたのみだったのですが、石垣を補強して現代の技術で戦国時代「風」に復元したものです。

右は虎口の石垣。

写っている部分は遺構としてわずかに残っていた当時の石垣ですが、これも周囲を補強して綺麗に復元がされています。

ただ、所々に当時の石畳や礎石の一部が残っていて「往時を忍ぶ」のみです・・・


そして、虎口を登り切ったところにこれまた復元された冠木門。
この向こうが、城主氏照の住まっていたという「御主殿跡」。





八王子城は落城後徳川家の直轄領となり、また明治時代以降は国有林になったので、落城当時のままの状態で「現場」が保存されていたようです。

なので、この広々とした「御主殿跡」を発掘調査した結果、礎石をたくさん使った建物の跡や水路の跡、茶道具やガラス器等も含めて多数の遺物が出土したということです。

御主殿跡の端からは、眼下に先ほどの曳橋を見下ろすことができました。



さて、八王子城は山麓の居館地区・山上の詰めの城である要害地区・城下町、武家屋敷にあたる根小屋地区にわかれた典型的中世山城なので、現在残っている遺構も相当に広い範囲で、最低でも半日コースです。

ここま居館地区をゆーっくり見て回ってしまって、結構時間もかかってしまったのですが、お天気もぴかぴかだし、これは山の上まで攻めなきゃでしょー!

というわけで、さあこれから山の上へ・・・
ですが、長くなっちゃったので、続きはまた次回(^^;)


 
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